安藤裕子 LIVE 2015 「あなたが寝てる間に」 @大阪・森ノ宮ピロティホール 3.22(日)

 昨夜、森ノ宮ピロティホールで開催された安藤裕子 LIVE 2015 「あなたが寝てる間に」の初日公演をレポートします。

 

 思い切りネタバレをしていますので、ご理解をいただける方のみ読み進めてください。

 

 

 客電が急に落ち、薄い幕の向こうで5つの照明が明滅、光の粒子がキラキラと反射する中、「森のくまさん」のイントロ部分のループが流れる。このイントロ、大音量だと細部までハッキリと聴こえた。鳥の鳴き声が響いたり、木々の擦れる音が聞こえたり、一瞬でホールのざわめきから深い森の中へと連れて行かれる。バックミュージシャンが徐々に揃い、準備が完了すると、安藤裕子(敬称略)が登場。佐野康夫による職人技としか言いようがない熊の足音のようなもたついた、でも芯のあるドラムと共に幕が上がる。白いスカートにポンチョのような白いトップス。小さな花びらがいくつもついていて、綺麗だった。その下にエメラルドグリーンのキャミソール。靴は白い厚底のスリッポン。客席の右側と左側に交互にバレエのレヴェランスのような仕草で無言の挨拶をして、曲に入る。一曲目から会場全体に響く伸びやかな声で場を圧倒。アンビエント的な音像で、山本隆二のライブならではのキーボードのフレーズが面白かった。「残念無念」の部分で緑の照明が瞬時に赤に変わり、「うるせえ」と声を荒げる姿のすさまじい迫力。何とも説明しがたいが、もったりしているが芯のある佐野康夫のドラムが本当にすごい。曲が終わったかと思うと激しいドラムからそのまま「大人計画」へ。バンドライブには初参加の設楽博臣によるエレキギターと、佐野康夫の超人的なドラムにより、ストリングが主体のポップなCDバージョンとは打って変わり、かなりロッキンな仕上がりに。

 

 「おいーっす!」と気の抜けた挨拶でMCが始まるが、静かな客席。「声が小せえぞ!」とにこやかに悪態をつく安藤裕子。そのまま昨夜大阪に前乗りをして、鶴橋に向かった話を。「鶴橋ってみんな知ってる?」という天然ボケをかましつつ、「出てすぐ焼肉なの!映画のセットみたい!」と会話を続けながら北の湖親方に出会ったと語る。初日に緊張して眠れなかったというエピソードを挟んで、新居昭乃に曲紹介を頼む安藤裕子。どの曲がくるかドキドキしていると、新居昭乃が、あのものすごくかわいい声で「死ぬのは奴らだ」と物騒な台詞を呟き、「Live And Let Die」へ。「きっと好い事ばかりじゃないさ」の部分はもちろん新居昭乃が歌うのだが、なんと残りのバンドメンバーもコーラスとして参加。野太いおじさんたちの声が入ることで、逆に新居昭乃のエンジェルボイスが際立っていた。安藤裕子は「た~しかめれ っば~」と「ば」の前に溜めを入れて歌っていた。三管サックスが肝の曲なので、どういうアレンジでくるか楽しみにしていたが、例えるならNHKのThe Covers出演時の「うしろ指さされ組」のような、ゴリゴリなエレキギターといい意味でチープなシンセの音色によりニューウェーブっぽいアレンジで面白かった。

 

 叩きつけられるドラムとアヴァンギャルドなギター、マイナー調のピアノでジャズのジャムセッションのような出だしから、お馴染みのピアノのイントロに移り、「RARA-RO」へ。期待しすぎていたからか、想像していたほどのインパクトはなかった。むしろ初披露だったアコースティックライブの方が良かったくらい。佐野康夫のドラムが良くも悪くも独特なため、スカのリズムにノリにくく、バンドとしてのアンサンブルがイマイチうまくいっていないイメージ。これは初日ならでは。それでも「まだまだ行けるよ 坂の上の雲」からのラストのサビへの流れには息を飲まされた。アウトロが終わり、なんと設楽博臣のギターソロが入る。速弾きに歯ギター(!)とかなり激しく弾きまくっていてカッコよかった。今までの山本タカシのギターではあり得ない演出。今回のライブの要はどうやら設楽博臣と佐野康夫らしい。その二人と荒れ狂いっぷりを、安藤裕子のライブ参加はベスト盤発売時のツアーぶりの鈴木正人の重厚なベースと、安藤裕子の共同制作者でもある山本隆二が抜群の安定感でしっかりと支えている、そんな雰囲気。

 

 安藤裕子がMCをしている間、ひたすら山本隆二がムーディーなキーボードを披露。「そろそろ曲に入りたいけど、ものすごく楽しそうに弾いてるからなあ」と山本隆二をイジる安藤裕子。そのやり取りを何度か繰り返しながら、なんと「TEXAS」へ。イントロからは全く判断できなかった。シンセのまろやかな味わいと、力強いドラム、随所に挟むフレーズが新しいエレキギターによりかなり新鮮なアレンジだったが、ポップなのにどこか物悲しい絶妙なメロディにより、少しうるっとさせられた。序盤はこのままロックに進むのかと思いきや、ここで「You」へ。サビの「悲しみも淋しさもなかったように去れるけど」の部分の、透き通るファルセットとクリアな地声の転換がCDの通り、美しかった。アルバムに忠実なアレンジで、70年代のキラキラアイドルバラード感がよく表現されていた。新居昭乃がイントロやアウトロでグロッケンを弾いていた。

 

 今回のツアーグッズの変わり種商品、人魚姫の光るリングの説明をしつつ、安藤裕子アイドル化計画を滔々と語り始める。豊崎愛生という声優に楽曲提供をした所以で招待された彼女のライブで、ファンがサイリウムを振っている姿を見て「私もしてみたい」となったそう。本当はボールペンの先が光るデザインにしたかったが、それだと値段が張るためにこのような指輪の形になったらしい。キーボードの山本”教頭”(山本隆二)にその指輪の振り方を客に指南するように言いつける安藤裕子。「なんで教頭なのかみんな意味分からないでしょ」と山本隆二がツッコむと、「安藤裕子アイドル学院の教頭」と安藤裕子。すかさず「聖アンドリュー学院」と訂正する山本隆二。そのまま「僕が森ノ宮~!」って言うから皆さんは「ピロティ~!」って言って、指輪を上に振りかざしてくださいと喋る山本隆二。ライブでこんなに喋っているのは初めてではないだろうか。「森ノ宮~!」「ピロティ~!」コールに飽きると「ピロ~!」「ティ~!」や「ミルク~!」「ティ~!」など遊び始める。「リチャード~!」と掛け声を始めるが会場の人は皆「ギア~!」と答える。山本隆二は「リチャード・ティー」というアメリカのミュージシャン兼ピアニストをイメージしていたみたいで「そこはティーでしょ」と言うが、「いや、普通リチャードはギアだから」と安藤裕子にツッコまれる。「エリック~!」という掛け声には皆分からず、無言。どうやら作曲家の「エリック・サティ」をイメージしていたらしい。「私が思い描いていたアイドルと違う!」「なんか学生運動みたい」と安藤裕子にツッコまれる。そういうやり取りを挟みつつ、「君たちはAKBには入れないが、おニャン子クラブには入れる!」と安藤裕子が大声で叫んだと思いきや、なんとここで「うしろ指さされ組」のカバーへ。TVでのアレンジより更にパンキッシュなニューウェーブよりのアレンジで面白かった。シャイな安藤裕子ファンの皆さんも「さされ組」の部分できらきら光る人魚姫リングを控えめに振り上げていて、「蛍みたい」という安藤裕子の評の通り、とても綺麗だった(どうやら皆そこまで興味がないだろうと思っていたのであまり在庫を用意していなかったが、予想外の売り上げで完売したそう)。

 

 そのまま”どこかで聞いたことがあるけれど、何の曲かは思い出せない”イントロに入り、もやもやしていると、なんとYMOの「君に、胸キュン。」カバーに。もちろん男性陣がコーラス参加。佐野康夫がドラムを叩きながらちゃんとコーラスに参加していて、その体力にびっくりした。「君に胸キュン」のあとの「キュン」の部分も安藤裕子はちゃんと歌っていた。短いイントロを挟み、なんとここで「」へ。完全なバンドバージョンとしては2012年の「勘違い」レコ発ツアーの大阪公演のみだったため、大変レアな楽曲。しかも中盤のここで来るとは思わなかったので、かなり意表を突かれた。”森のくま”から”鬼”までかなりのメルヘン幅広さである。錯綜するリズムと複雑なメロディ展開の鬼ごっこのようなこの楽曲。サビで設楽博臣のエレキギターが開放的に響くアレンジが印象的。ラストの長いアウトロに向けて、次第に熱量を増してゆく演奏と、それに負けじと声を張る安藤裕子のボーカル、そして束の間やって来るブレイクの一瞬の無音からの熱量の放出に鳥肌が立った。文句なしの名演だった。

 

 「人と交わるのが苦手で、絵を描くにしても曲をつくるにしても自分の世界に籠りっぱなしだった。でも、活動を続けてゆく中で人と交わって曲をつくる楽しさを知った。今回のアルバムも”音楽で思いっきり遊びたい”というのを念頭に制作した」。「年を取っても音楽を思いっきり楽しめる、そんなジジイやババアになるのが今の目標です」。「どうか皆さんもいい人生を過ごしてください」という言葉で締められたMCのあと、「人魚姫」へ。やはり安藤裕子の声は静かな演奏の元でよく映える。同行者曰く「α波みたいなものが出ている」、クリアなファルセットには確かにCDでは含み切れない透徹な倍音の響きが幾重にも重なり、癒しの空気を醸し出している。アコースティックライブで初めて聴いたときから、色んなイベントやフェスで演奏されたこの楽曲。いつしか曲が成長し、最初の頃から何倍も名曲に育った気がする。原曲はギターにエレキベースの編成だが、キーボードが入り、ベースも鈴木正人によるウッドベースだったため、また違った仕上がりに。子守唄のような静かな優しさ。夕暮れのようなオレンジの照明が美しかった。そして、その夕暮れの照明から、夜更けのような深い青緑の照明に夜空に輝く星々のようないくつもの小さな光が浮かぶ幻想的な照明に変化し、「はじまりの唄」へ。一番はキーボードのみでシンプルに、二番から佐野康夫の芯のあるドラムが入り、より力強く。サビの母音を押し上げてゆくような歌い方がまた、音源の何倍も清らかで胸を打った。鈴木正人はこの曲でもウッドベースを弾いていたが、その渋い音色がこの曲のよさを引き立てていて、今回のライブは沖山優司でなく、鈴木正人で本当によかったと思えた。

 

 この夏、無料配信もされた楽曲「レガート」では夜明けのような淡い水色の照明に。丁寧に折り重ねられてゆく音の厚みと変幻自在の声量使いにより、一曲の内に曲を深化させてゆくアンサンブルに、バンドライブの真骨頂を感じた。「73%の恋人」ではまた、夕暮れのような、はたまた宵闇のような、オレンジと紫の不思議な照明の中、バラードなのにビターでロックな音世界を存分に撒き散らしていた。ギターの設楽博臣が曲中でアコギからエレキギターに持ち返る、その素早さにびっくりした。長い長いアウトロの多重層的なコーラスは、ライブだと二層にしか重ねられないはずなのに、コーラスの新居昭乃との芸術的な兼ね合いにより、幽玄の美しさ。そのたおやかなコーラスの中を激しい演奏が押し広げてゆき、CDだとそこまで好きな曲ではなかったのに、演奏曲の中でも上位に食い込む出来栄えだった。

 

 宮崎駿監督の映画「風立ちぬ」での「創造的人生の持ち時間は10年だ」というセリフを受けて、もうデビュー12周年になる自分はその10年を越してしまっていると語り出した安藤裕子。「もし自分のためだけに音楽をつくるのなら、自分は10年もあればお腹がいっぱいだったと思う。でも、人のために歌うことを知った」。「ある日、女の子から”助けてほしい”という手紙が来た。どうやら家庭環境が悪いようだった。でも私はその子を連れ去って助けることもできない。それでも、ライブに来てくれるだろうから、この曲はその子のために書こうと思って書いた曲です」。「その”誰かのために曲を書く”という行為が、活動を続けてゆくうえでひとつの転機だったのかもしれない」というMCのあと、「青い空」へ。一番はイントロも含めてアコースティックギターのみで演奏され、二番からバンド演奏に。明日へ向かって突き進むような力強い演奏と、感情が乗った安藤裕子のボーカルが感動を生み、少し視界が歪んだ。「青い空の下 攫ってみせる だけど あなたの寝顔がまだ夜に透き通って」という詞が本当に好きだ。「あなたに見せてあげよう 咲くような朝陽を あなたに全てあげたい 明日と青い空」という歌詞も、前述のMCを聞いたあとではその深みが違った。「その声で 呼ぶのなら」とアウトロで二回絶唱し、青い青い照明の中、思いっきり泣いたあとのような爽快感と寂寥感を胸に残して曲が終わった。

 

 今日一の声量で始まった「世界をかえるつもりはない」。この曲は場の空気の層を一段深くする、そんな作用のある曲だと思う。アコースティックアルバムの演奏とは明らかに曲の持つ神聖さの度合いが違う。限りない熱量の放出と、交互に訪れるファルセットの「あいしてます」というシンプルな囁き。「この狭い部屋の片隅で」のパートは毎回歌い方が違うので楽しみだが、今日はジワジワと迫り来るような緊迫感のある歌い方だった。曲が終わっても、なかなか拍手が湧かなかったということがそのパフォーマンスの凄まじさを如実に示しているだろう。しばらく経ってようやく拍手が起こると同時に荒れ狂うドラムの導入から「サイハテ」へ。声と楽器がひとつの大きな塊となって、一気にこちらに押し寄せてくるような重量感のある演奏で、長い髪の毛を振り乱して歌う安藤裕子の姿がまたカッコよかった。目玉である間奏の山本隆二のピアノは音源より更に音数が多く、叩きつける鍵盤のひずみまで伝わってくる渾身のプレイだった。CDでは途中でフェードアウトしているが、ライブだと最後までその激しさを思う存分爆発させるアウトロ。ギターを頭上で弾いたり、マイクスタンドに擦りつけたり、設楽博臣がかなり荒々しいプレイをする中で、安藤裕子が思い切りヘドバンしていて、やっぱり安藤裕子のライブはロックだと再認識。演奏をその厚みで支えるソリッドなベースと、もはや人の動きとは思えないほど手数が多いドラムのリズム隊も素晴らしかった。アウトロが終わった後、花火のような佐野康夫によるドラムソロが点滅する照明と共に爆発的に繰り広げられ、本編ラストに相応しい息をつく間もない最高のパフォーマンスだった。

 

 アンコール一発目のメンバー紹介は、前述の「聖アンドリュー学院」の流れを含んでいるようで、山本教頭は教頭、設楽博臣は理科の先生(理数系は赤点だったそうだが)、鈴木正人は古典の先生……だったが、学生時代唯一赤点を取って夏休みの間補習に行かなくてはならなかったという話を受けて英語の先生に、佐野康夫はなんと社会の教員免許を持っているとのことで社会の先生に(初耳だった)、新居昭乃は保健室の先生(かわいい声で何やら保健室の先生的なセリフを言って、安藤裕子をキュンキュンさせていた)、そして古典だけは偏差値74だったという安藤裕子が古典の先生という呼び込み方だった。そのままなぜか卒業の話になり、「贈る言葉」を歌い出す安藤裕子。しかし、歌詞が出てこず終わりか、と思った瞬間、客席のお兄さんが歌詞を先導してゆき、一番を見事に歌い切るというライブならではのイベントがあって会場内は爆笑だった。

 

 「みんな歌うぞ」という入り方で始まった「問うてる」だったが、歌詞をミスしてもう一度やり直しに。アコースティックライブとは違って、やはりリズム隊が入ると曲の重さが変わる。アウトロの最中、安藤裕子がやたらと、ある客席に向かって手を振っているなあと思っていたが、どうやら4歳くらいの女の子がいる模様。そのままその子に手招きをして、ステージ近くまで呼び寄せると、本人が着用していたグッズの人魚姫リングを手渡していて、なんだか微笑ましかった。ラストの「ラーラーラーラー」の客席のシンガロングに対する安藤裕子の煽りがいつもより少なかったので、てっきりこの曲で終わりだと思っていた身からすると肩透かしだった。肩透かしだったが、その後のMCでアンコールはまだ続くようだと分かってテンションが再上昇。まさか「鬼」も「サイハテ」も「問うてる」も演るとは思わなかった。「震災で傷ついた人のために書いた曲だったのに、曲ができあがってゆくとともに祖母の容体が悪くなってゆき、ついには亡くなった。何だかレクイエムのようになってしまって、自分では長い間歌えなかった。でも、春のきざしがゆっくりと見え始めた今、歌いたいと思って選曲しました」というMCから「地平線まで」に。どこか神聖な空気も漂う、静謐な美しさを湛えた演奏だった。

 

 ラストは濃い青と緑の中間のような照明の中、山本隆二のたおやかなピアノの元で情感のある揺らぎを響かせたボーカルが印象的だった「都会の空を烏が舞う」へ。ストリングスが主体の長いアウトロをどうアレンジするか興味津々だったが、シューゲイザー的なエレキギターと、烏の羽ばたきを連想させるシンバルの音、豊かなウッドベースが加わり、音源とはまた違った方面の素晴らしいアレンジに。「蘆屋道満が安陪清明との戦いに敗れ、打ち首にされて、桜吹雪が舞う中、走馬灯のように過去の思い出が浮かびながら、魂が空へ昇ってゆく」というイメージらしいこのアウトロ。途中の佐野康夫による職人技的な重たいバスドラさばきはまさに”打ち首”というような演奏で唸らされた。徐々にBPMを速めてゆく演奏の中、天国から響く声のようなファルセットで場内を満たし、体幹を鍛えるために続けられているバレエの賜物である美しい所作で翼が生えたかのような動きをする安藤裕子はもはや神々しかった。音量が最高潮に達した瞬間、無音になり、それと同時に照明が落とされバックの星のような光だけが輝く、その美しさたるや。一音一音を丁寧に拾い切ろうとするファンの真摯な姿勢の表れである、完璧な静けさだった。長いブレイクのあと、ピアノがラストの和音を奏でるとともに、また幕が下り、何とも言えぬ映画的な余韻を残し、約2時間半に及ぶ最高のライブが終わった。

 

 

「セットリスト」

 

01.森のくまさん
02.大人計画
03.Live And Let Die
04.RARA-RO
05.TEXAS
06.You
07.うしろ指さされ組(カバー)
08.君に、胸キュン。(カバー)
09.鬼
10.人魚姫
11.はじまりの唄
12.レガート
13.73%の恋人
14.青い空
15.世界をかえるつもりはない
16.サイハテ

 

(アンコール)
17.問うてる
18.地平線まで
19.都会の空を烏が舞う

 

 

Vocal:安藤裕子

Chorus, Glockenspiel, Tambourine:新居昭乃

Electric & Acoustic Guitar:設楽博臣

Electric & Wood Bass:鈴木正人

Drums:佐野康夫

Keyboard, Bandmaster:山本隆二

コード・音楽理論解説 / 安藤裕子「都会の空を烏が舞う」

  今日は趣向を変えて、楽曲のコード解説から音楽理論のお話を。

 

 1月28日発売の安藤裕子「あなたが寝てる間に」のラストを飾る「都会の空を烏が舞う」。コード進行がとても好きで、尚且つハ長調と解説しやすい楽曲のため、この曲を選びます。「猿でも分かる!」とは言いませんが、できるだけ音楽理論に親しみがない方でも最後まで読んでもらえるようにがんばって書いていますので、どうぞよろしくお願いします。

 

 

 実際にコードをお付けになられた、アレンジャーの山本隆二さんにもこう仰っていただいているので恐らく大きなミスはないと思いますが、それでも素人の耳コピですので間違いがありましてもあしからず。

 

(*1) | | は1小節を表しています。

(*2) / は左側がコード、右側がベース音を表しています。

 

 

 

 

(時代の香り ページをめくる~♪)

| C / B♭ | Am | G#dim | C / B♭ |

| C / B♭ | Am  A♭ | C / G  G#dim | Am |

 

 

 いきなりC / B♭!いきなりオンコードを持ってくるセンス!オンコードっていうのは、ベース音に本来のコードの根音(ルート)でないものを持ってくるという技法なのですが、これによりB♭M7(9,11,13)というテンションコードの中を抜いたのと同じ音になるので、浮遊感が生まれるんですね。また「シ♭→ラ→ソ#」と、ベース音が半音ずつ下がってゆく、下降クリシェになっています。終焉を思わせる、どこか物悲しいこの曲にぴったりの進行。「G#dim」は、セカンダリードミナント「E7」の代理です。この「E7」はもうJ ポップのバラードで見ないことはない、ものすごく使い勝手のいいコードです。この曲の調号、ハ長調平行調であるイ短調ドミナントですので、短調の響きを持ってくることができるんです。それゆえの物悲しさ。セカンダリードミナントなんで、つまりはトニックに解決するんです。前述の通り「E7」イ短調(Am)のドミナントですので、本来は「Am」に解決するコードなのですが、ここではどうやら「Am」に解決していません。ここが一番、耳コピしていて迷った部分なのですが、どうやら「C / B♭」に行っているようです。未解決のため、どこか不安定な感じがして、また浮遊感を増幅させています。

 

 後半部分も「シ♭→ラ→ラ♭→ソ→ソ#→ラ」とキレイに半音ずつ下がって、上がっています。ピアノが主体な曲に相応しい美しい流れです。途中で登場するA♭モーダルインターチェンジという技法。M.I.Dとも略されます。カッコイイ名前です。日本語名だと同主短調変換。少し分かりやすくなったのでは?要するに、ハ長調の同主(主音が同じ)短調であるハ短調のダイアトニックコードを借用する、という意味です。ここではパッシングディミニッシュ的に使われています。パッシングディミニッシュの意味は各自ググってね。個人的にモーダルインターチェンジは浮遊感を生むコードだと思います。浮遊感のゴリ押しです。

 

 

(痛むこゝろ 失くしたのは~♪)

| C / B♭ | Am | G#dim | C / B♭ |

| C / B♭ | Am  A♭ | C / G  G | C |

 

 

 ほとんど前述の進行と同じですが、ラストでようやくドミナントが出てきます!これまでが不安定すぎる!ドミナントというのは、お辞儀のときの「ジャーン ジャーン ジャーン」のピアノの「ジャーン」の部分……って「樹木希林の”き” !」くらい分かりにくい説明ですね。2回目の「ジャーン」、つまり礼の部分で鳴っているコードです。ラストはきちんとトニック「C」に解決しています。ここ、バックに合わせてお辞儀できます。

 

 

(空を舞う黒い影に~♪)

| G / F | C / E | G / D | C |

| FM7  G#dim | Am  D7(9) | D♭M7 | G / D |

 

 

 おっとパターンが変わりました。A→A'→BとしたらBの部分です。そしてここでもいきなり「G / F」!もっさんの初っ端ぶち込みオンコードです。まあ、単純にドミナントセブンス「G7」のトップノート「ファ」がベースにきているんですが、これもまた「FM7(9,11,13)」というテンションコードの中を抜いた音と一緒ですので、浮遊感を生みます。浮遊感生みすぎ!!!そしてやっぱり「ファ→ミ→レ→ド」とベース音が半音ずつ下がっています。もうすぐ閉館時間、みたいな焦燥感と寂しさがあります。

 

 後半部分で特筆すべきは「D7(9)」。構成音は「レ、ファ#、ラ、ド、ミ」。次の「D♭」に向かうパッシングディミニッシュ的な使い方です。「D」はハ長調ドミナント「G」のセカンダリードミナント(「D」は特別にドッペルドミナントとも呼ばれます)。そして「D♭」も「G」の裏コードなので、ドミナントの代理として使われます。裏コードというのは五度圏で真裏に存在するコードなので……って言ってもなんのこっちゃですよね。噛み砕いて言うと「D♭7」は「G」の変わりとして使えますよ~ また、変形パターンとして「D♭M7」も使えますよ~ って意味です。最後は「G」で終始しているので、ここはドミナントゴリ押しゾーンですね。コード進行における剛力彩芽ゾーンです。剛力彩芽は太字です。

 

 

(上手になった優しい言葉~♪)

| C / B♭ | Am | G#dim | C / B♭ |

| C / B♭ | Am  A♭ | C / G  G#dim | Am  F#m7-5 |

| C / G | G | C |

 

 

 ラストはまたAパターンです。A"ですね。ここで特筆すべきは「F#m7-5」。「なんや、ややこしそうなコードやなあ」と思うことなかれ。構成音は「ファ#、ラ、ド、ミ」。「あれ~ どっかで見たことある~」と思った方、お目が高い!そうです、「D7(9)」とほとんど同じ。ここでは次のベース音「G」に向かうパッシングディミニッシュ的な使い方ですね。パッシングディミニッシュってめっちゃでてきましたね。ちゃんと説明しておくべきでした。もうここまできたら説明しませんけどね!ラストの進行はまた、お辞儀できます。ハリー・ポッターでの松岡佑子の迷訳、ヴォルデモートの「お辞儀をするのだ!」を思い出しますね。

 

 

 実はこの曲、5分16分あるのですが、歌があるのは2分3秒のここまで。ここから3分間はアウトロです。アウトロ長い!そのアウトロの進行が美しすぎます。こちらです。

 

 

| C / B♭ | Am7 | A♭M7 | C / G  F#m7-5 |

| FM7 | Cm / E♭| D♭M7 | G / D  G | ×6

 

 

 ラストもやっぱり「シ♭→ラ→ラ♭→ソ→ファ#→ファ→ひとつ飛ばしてミ♭→ひとつ飛ばしてレ♭→レ」。「べっぴんさん、べっぴんさん、ひとつ飛ばしてべっぴんさん」みたいな関西人のノリ的ひとつ飛ばしが2か所ありますが、基本的に半音下降クリシェです。ベース音が下がってゆき、壮大なストリングスが高らかに上がってゆく……最後まで浮遊感です。しかも、BPMが徐々に早まってゆくという。ニクいねえ!しかも地味にバックで安藤さんの「ド」のコーラスがいくつも重なっているという。堪りません!ほとんどこれまでに出てきたコードですので説明するところは少ないですが、ひとつあります。「Cm / E♭」です。これもまた「E♭dim7」や「E♭7」で代用可能なパッシングディミニッシュ的な使い方です。ですが、なかなか「Cm」というトニックマイナーは見かけないですねえ。山本隆二さんは安藤裕子さんの「愛の季節」という楽曲でも「D / F#→Dm / F→Em7→Em7 / A→A」(Key=D)という流れでトニックマイナーをお使いになられています。Bメロの「会いたいなあ」の部分と、アウトロの部分です。こうしてベース音を変えて使うと全然違和感なく使えるんですねえ……。勉強になります。

 

 

| C / B♭ | C |

 

 

 そしてラスト。これ前のところにくっつけとけばよかったな。最後地味すぎる……。いや、何でもないです。「C / B♭」でラストオブザ浮遊感を出しつつ、ラストは「C」で気持ちよ~く終わっています。感無量。映画音楽のような余韻です。また1曲目を聴きたくなる絶妙な余韻。

 

 

 と、1曲を深く掘り下げて解説してみましたが、いかかだったでしょうか?解説を読んでから、もう一度曲を聴いてみていただいて「ほう、そうか!」となっていただければ嬉しいです。本当は歌詞の解釈まで書きたかったのですが、それをしていると日付を越えてしまうので今日はここまで。今週中に追記して、告知しますので、またそのときにも目を通していただければ幸いです。明日のLIVE、楽しみだなあ。

最近ハマっている洋楽・邦楽・男性アーティスト

 このブログ、ジャンルを「音楽」に設定したのに、音楽ブログにするつもりだったのに、全然音楽の話してなくね?ってことで今日は音楽記事です。

 

 私が特にフェイバリットとして挙げるアーティストは女性ソロが多い。それにはきちんと理由がある。どうしても男性(ソロでもバンドでも)は作詞作曲だけじゃなく、アレンジから演奏(の一部)まで全部自分でやる、という人が多い気がする。もちろんそれにはそれで良さがあるのだが、アレンジが似通っていて(統一感があるとも言える)どうもアルバムを1枚通して聴くとき、途中で飽きてしまうのだ。女性アーティストは「鼻歌作曲」の人も多く、アレンジャーのパーソナリティが出易い。また、演奏形態にも縛りがないので(バンドだとなかなかそうはいかない)、バンドあり、弾き語りあり、ストリングスもブラスも曲次第、という自由さ。アートワークも重視する性質なので、女性の方がそういう方面にこだわりが強いということも重要である。あとは、歌詞。男性は社会的、というか外に開かれた歌詞、女性は「私」と「あなた」みたいな、内に籠る詞が多い印象で、私はどちらかと言うと後者の詞を好むから、というのも大きい。

 

 と、なぜこんな切り口で記事を始めたと言うと、近頃自分の中で男性アーティストがアツい。ということで、洋邦問わず最近よく聴いている男性アーティストを紹介したい。

 

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 情報はますます簡略化されて、人が言語化する思考はよりプリミティブになっている。世間の流れはしょうがないけれども、これじゃあいかんなあと個人的には思うので、短文社会に対する密やかな抵抗としてブログを始めることにした。あまり”初めの挨拶”を長々としすぎると、更新が滞ったときに恥ずかしい思いをするので、ここらでさっさと切りあげる。

 

§

 

 近頃、”ひとり梨木香歩フェア”を勝手に開催している。彼女の作品を―初めて読むものも、何度も読んでいるものも―全て、少しずつ読み進めている。

 

 梨木香歩、1959年生まれ、小説家。詩のように美しい文章、端正な文体。動植物に歴史、宗教、心理学、人文地理学まで幅広い分野に造詣が深く、個人における感情の揺らぎや社会の動きを滋養のあるモノローグとともに綴る現代を舞台とした小説から、古めかしい文体で明治から昭和初期を舞台とした激動の歴史の流れの中を生きる人々を描く作品までその振り幅は実に広い。全作品の根底に通ずるものは、日本人としての四季の移ろいに対する豊かな情緒、そしてユング心理学の第一人者である故・河合隼雄(*1)のもとで助手をしていた経歴(*2)が如実に活かされた、人が根源的に抱えているもののうまく言語化できない心理への鋭い描写であると思う。もちろん、これらも私が彼女の作品を愛読してやまない大きな理由なのだが、その理由の中核に位置するのは、彼女の思想―そして思考体系―に私が強いシンパシーを感じていることであろう。私が強いシンパシーを感じるもう一人は、シンガーソングライターの安藤裕子なのだが、その話はまたいつか。

 

(*1)河合氏は私の住んでいる市のお生まれである。これにも何かの運命を感じる。
(*2)ちなみに彼女のデビュー作「西の魔女が死んだ」は、河合氏に見せるためだけに書いたそうだが、それを読んだ河合氏が”涙が出た。よかった。あの原稿はもう出版社に持っていったよ。これを出すことは意味のあることだから”と何の断りもなく出版社に持っていったことで世に出たそう。

 

§

 

 そんな”梨木香歩フェア”のなか、「ぐるりのこと」という森羅万象―ありとあらゆるものに存在する"境界"に焦点を置いたエッセイに、長らく思い悩んでいた”共感”に対するイメージを言語化した一節を見つけた。そしてそれは同時にある種の違和感を生じさせもした。

 

共感とは大抵のところ、相手を自分に引き寄せて発生させるもの……(中略)……「共感する」ということは大事なことだ。が、それはあくまで「自分」の域を出ない。自分の側に相手の体験を受け止められる経験の蓄積があり、なおかつそれが揺り動かされるだけの強い情動が生じなければ働かないのだ

 

 これは、ドイツ革命の急進的な推進派だったローザ・ルクセンブルクが幼なじみに向けた手紙にしたためた文章を引用し、続けられた言葉だ。ローザは獄中での生活のなかで与えられた外の散歩の最中、かつてルーマニアの野を自由に駆け回っていたが戦利品としてドイツに連れてこられ、軍用としてむごたらしく生活している水牛に自己を重ね合わせ、強い悲哀を感じた。その”共感”に対して梨木香歩は”彼女が、「自分の境界の向こうとリンクした」、とは言えないだろう。”とまとめている。自己と他者。共感。ふと思い当たることがある。

 

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 先日、”マツコと有吉の怒り新党”という番組で”新・3大「旅人照英」での突然入る照英涙のスイッチ”というコーナーがあった。梨木香歩のエッセイからの流れで、深夜のバラエティ番組の、それも視聴者を笑わせる目的のコーナーを用いて例をあげるのはやや滑稽な気もするが、話を続ける。

 

 それはタレントとして活動する照英が、「旅人照英」という、ローカル駅に立てられた伝言板をもとに田舎をめぐる東海テレビの番組でいきなり泣き出すシーンをまとめたものだった。照英は”昔ながらの銭湯にある懐かしのマッサージ器”や”すき焼き店を営む夫婦の会話”に感極まり、涙するのだが、対象そのものに感動しているわけではなく、それらと”祖父と行った銭湯の記憶”や”久しぶりに会った自分の両親の年老いた姿”を結びつけて泣いていた。梨木氏の言葉を借りれば、それは”自分の側に相手の体験を受け止められる経験の蓄積があり、なおかつそれが揺り動かされるだけの強い情動が生じ”たからだろう。

 

 また、そういえば、私は音楽を聴いて泣くことがない。それは音楽理論を学んでいるために、音楽というものをロジカルなものとして捉えている―たとえば”ここのメロディが感動的なのは、そういうコードが使われているから”だとか―ということもあるだろうが、人生経験が浅い、”自分の側に相手の体験を受け止められる経験の蓄積が”ないことが大きいだろう。ドラマチックな別れや、愛する人との死別を歌った曲を聴いても、実際に”それ”を経験したことがない私は、その歌のよさ―LIVEの場合はそのパフォーマンスのよさ―に感動こそすれ、内的な感情まで揺すぶられることがないのだ。

 

 しかし、本当に”自分の側に相手の体験を受け止められる経験の蓄積が”ない場合は共感することができないのだろうか。それこそ、梨木氏の「西の魔女が死んだ」という作品を読んだあと、当時まだ10歳だった私は”その作品に綴られたできごとに似た、実際の私のできごと”を経験したことはなかったが、それでも一週間ほどその作品を―その作品の主人公の気持ちを考えただけで涙が溢れ出た。それも”共感”とは呼べないのだろうか。

 

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 ”共感”といえば、こんな作品もある。ヤマシタトモコというマンガ家の”絶望の庭”という短編。”言葉の職業”である小説家の主人公は、人と人は決して分かり合えないことを憂えている。「あなたのことが分からない」というニュアンスの些細な言葉の数々に傷つく。言葉にすることを恐れ、うまく口に出すことができない。しかし、自分の気持ちを素直に言葉にする恋人に心を動かされる。

 

ぼくらは絶望の庭に生きている
他のだれも決して入り込むことのできない自分だけの小さな庭
…ぼくらはわかり合えない

 

 ぼくはその庭に種を植える

 

 鈴のような声で礼を言った女の子のことば

 


 いつもの仏頂面を少しだけ変えてあいさつした店員のことば

 

 

 ぼくにも次の客にも同じようにあついねと言った和菓子屋の店主のことば

 

 

 冗談まじりの整体師のことば

 

 

あるものは深く根ざし あるものはいずれ枯れる
花を咲かせたり 陰を落としたり
誰も見ることのできないぼくだけの庭

 

きみのことをこんなに好きだってきみに伝えたい

 

ぼくはことばの力を信じて
ときに恐れつつ
庭に種を植える
きみの庭に思いをはせながら

 

きみの前でことばは無力だ
それでもぼくの庭にはやわらかい雨がふる
きみのことばの種が育つ― 

 

(モノローグから一部抜粋)

 

 この作品のなかでは、”自分の側に相手の体験を受け止められる経験の蓄積が”なくても、人と分かり合うため、人と共感するために言葉を用いて”歩み寄ろうとし”ている。それこそが”共感”の形ではないか。

 

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 言葉というと、この間、友人と喋っていたときのこと。友人の椅子の座り方が面白かったので、”フェミニンな”という形容詞を用いて揶揄したら、フェミニンの意味が分からなかったらしく、”なぜわざわざ難しいカタカナ語を使うのか”といわれ、返答に窮してしまった。私にとって”フェミニン”という単語は”ゲーム”や”ピアノ”みたいなもので、伝えたい意味が攻撃的に聞こえない柔らかい響きが好きで、かなり使用頻度の高い単語だからだ。何気ない日常語として使った言葉が相手にとってはペダンチックなもの(たとえば”ペダンチック”はそう非難されても納得できる単語だし、私も会話では使わない)として捉えられてしまった。よくよく考えてみると、このような行き違いが起こらないように、むしろ生活するなかで、意識的にも無意識的にも、相手に合わせて自分の使用する語彙の幅を狭めている気がする。

 

 また他の例として、その友人とは別の友人とのメールでのことを思い出した。お互いLINEが”言葉に対する責任感の欠如”や”会話の応酬にある種の強迫性”を生むこと、そしてそれによる言い争いが起こることが嫌で、メールでやり取りをしていた。(話が逸れるが、私はメールが好きだ。レスポンスに猶予が与えられるし、件名に遊び心を出すことも、改行を効果的に使用することもできる。そして何よりも、LINEはトーク履歴を削除すれば一瞬で消えてしまうが、メールは一通一通が独立したものとしてより明確に保存される。情報化社会に合わせて利便を図りながら、手紙のエッセンスをも充分に引き継いでいる最高のツールだと思う。)彼女とのメールでは、私は持ち得る語彙をそのまま使用し、会話をしていた。どのようなコンテクストで用いたのかは覚えていないが、彼女に”奇譚”という言葉を使ったことがあった。美術大学に通う彼女は、その言葉をいたく気に入り、それをタイトルに据え、モチーフを膨らませ、作品をつくってくれた。”メールのなかで分からない言葉がいくつかあったから調べた”と言ってくれたこともあった。

 

 私が人に合わせて語彙を狭めることも、より共感を求めやすい会話を生み出すための一種の”歩み寄り”だろうし、彼女が私に合わせて言葉の意味を調べてくれることも、私との会話に共感を生みだそうとしてくれた、これまた一種の”歩み寄り”だろう。

 

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 梨木氏のいう通り、共感は自分の意識の範疇を抜け出さないことは確かなのだろう。しかし、それゆえに”自分の側に相手の体験を受け止められる経験の蓄積が”ない場合でも、分かり合おうとすれば、歩み寄ろうとすれば、共感は必ず生まれるのだと思う。また、ローザは水牛を自分に重ね合わせ、共感したわけではないと私は思う。ローザが水牛に自分を歩み寄らせたのだ。照英の涙においても、自身を相手に歩み寄らせたとも考えられるだろう。「西の魔女が死んだ」で私が泣いたのは、主人公の気持ちを分かろうと、主人公の気持ちに歩み寄ろうとしたからだ。逆に歌を聴いて泣けないのは、”分からない”と端から決めつける、共感しようとする意志の希薄さゆえなのだろう。共感とはいわば”歩み寄り”なのだ。”相手を自分に引き寄せて発生させるもの”ではなく、”自分を相手に歩み寄らせて発生させるもの”であると、そう思いたい。”自分と思想が似ている”といっておいて、と自分でも思うが、”共感”という行動を自分本位なものとして捉えることには少し抵抗がある。

 

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 最後に、共感の例をあげるなかで使用した”言葉”に関する詞をいくつかあげてみる。

 

言葉で穴を埋めても 満たされる筈などない

椎名林檎「警告」から抜粋)

 

言葉にも隙間を埋めるパワーがあるの ちゃんと聴かせて

安藤裕子「あなたと私にできる事」から抜粋)

 

 言葉を用いて人と分かり合おうとすることは非常に難しいことである。しかし、言葉は共感を生む最も優れたツールであることも確かだろう。

 

何回言っても伝わらないで 使いこなせもしない言葉の爪

手入れもせずに振りかざして つけた傷跡を消す薬はない

(日食なつこ「ヒューマン」から抜粋)

 

重たい体を引きずって 身軽な言葉に振り回されて
疲労困憊 それでも人は 懲りずにまた誰かに会いに行く
……(中略)……
分かり合えないことを 恐れたりしない

(日食なつこ「Fly-by」から抜粋)

 

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 私の絶望の庭にもやわらかい雨はふるし、誰かの何気ないことばが種となり、育ってゆく。そしてそれはゆっくりと、着実に育ってゆき、共感を生む。分かり合えないことを、恐れる必要はない。分かり合えないうえで、どれだけ歩み寄れるか。生きているとしばしば主観にとらわれ、相手を自分に寄せることばかり考えてしまう。

 

 この複雑な時代、日々の会話や思索のなか、できるだけ多くの人に、多くのことに、歩み寄って、共感してゆきたいものである。