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気は病から

 「おくすり手帳」を見てみると、11歳から今年、17歳まで毎年欠かさず(唯一16歳を除く)この時期に体調を崩している。

 

 病気のとき、朦朧とする意識の中、その意識の中の一部分だけが妙にクリアーになって、生きていることをいつも以上に実感する。体の輪郭から痛みだけがくっきりと浮き上がって、それを俯瞰で眺めているような。一日断食しているだけで体の中が空っぽになり、喉を通る液体の流れがより明確に意識に伝わってくる。激しい運動をした後みたいに、スポーツドリンクが気持ちいいほど勢いよく、滑らかに流れてゆく。そして摂取した液体がまた体外に排出されてゆく。その一連の流れに”体も器だなあ”なんて思いながら、風邪なんだか何なんだかよく分からない病気に3日間苦しめれられていた。

 

  ただただ寝ていたいほど調子が悪いわけではなかったので、読書したり、音楽を聴いたり、わりと文化的な生活を送っていた。その中で、3年ぶりに読んだ梨木香歩の「ピスタチオ」が”体も器”の考え方にリンクしていて、興味深かった。数々のモチーフが多重層的に連なり、構成された作品なので、数行で説明しづらいそのあらすじは紹介しない。この作品の中に、アフリカの”ダバ”という概念が登場する。”ダバ”とは体内の水分調節の話で、”悪い水と良い水を動かす力”らしい。主人公は”長期的な見通しの立たない、旱魃か洪水。雨季と乾季というシーズンそのものが消えつつある”という現在のアフリカの気候も”ダバ”によるものではないか、とふと気がつく。

 

ダバとは関係ないだろう、あれは体内の水分調節の話だから。


いや、と棚は、さらに自分の考えを打ち消す。ふと閃いたことに衝撃を受け、瞬きもせず本を見つめる。水分調節の話だ、確かに。生きものの、体内の。けれど、土地自体を生きもの、と見たらどうか。


ある土地の、水分調節の話。


つまり、治水の。洪水の。
……地球の?


片山海里は、それと意識して、ダバの話の次に、繰り返し洪水の民話を差し挟んでいたのではないか。一つの有機的な場の、水分コントロールの問題。

 

梨木香歩「ピスタチオ」より引用)

 

 この物語は”片山海里”という既に亡くなった人物に動かされるように、日本とアフリカ、多数の人の流れを結ぶように、物語を収斂させてゆく。

 

―ねえ。人って不思議なものね。生きている間は、ほとんど忘れていたのに、死んでから初めて始まる人間関係っていうものがあるのね。

 

―海里のこと?

 

―まあね。あなただから言うけど、その人が死んでくれて初めて、その人をトータルな「人間」として、全人的にかかわれるようになる気がする。生きているときより、死んでから、本当に始まる「何か」がある気がする。別の次元の「つきあい」が始まるのね、きっと。あなた風に言えば、「咀嚼」できるっていうか。

 

梨木香歩「ピスタチオ」より引用)


 
 よく”病は気から”なんて言うけれど、どちらかと言うと”気は病から”なんじゃないかなと思う。体調が悪くなると、気分もより深く深くへと沈んでゆき、考えなくてもいいようなことばかり考えてしまう。暗鬱の気は自省へと繋がり、自己嫌悪に陥ったり、他人への憎しみが増幅したりする。もちろん、人の優しさがいつも以上に沁みたりもするのだが。”体は器”そして”地球も器”なのかも知れない。人の流れも、心の流れも、その流れが悪くならないように、風通しのいいものにしておかなければならない。もちろんそのために、体調には気をつけないと。”体は資本”という言葉が、人との会話の中で出てきた。本当にいい言葉だと思う。来年の今頃、全ての流れが滞りないものでありますように。

 

§


 ……という構成で次の記事を書こう、と頭の中でなんとなく組み立てながら「ピスタチオ」を読んでいたのだが、読了後、なんとも鳥肌が立つようなことがあった。
「ピスタチオ」に、”死者には物語が必要だ”という言葉が登場する。

 

では、「起こった事態を掬い取れるつくり」とはどういうものなのか。

 

片山海里の言っていたという、死者の「物語」このがそれなのだろう、と思う。人の世の現実的な営みなど、誰がどう生きたか、ということを直感的に語ろうとするとき、たいして重要なことではない。物語が真実なのだ。死者の納得できる物語こそが、きっと。その人の人生に降った雨滴や吹いた風を受け止めるだけの、深い襞を物語が。

 

梨木香歩「ピスタチオ」より引用)

 

 読了後、梨木さんのインタビューを読もうと思って、"BOOK SHORTS"というHPのインタビューを読んでいると、過去のインタビュイーに今日マチ子さんがいた。

 


今日マチ子さんインタビュー | BOOK SHORTS

 

 一度、Twitterでも彼女の作品「いちご戦争」を紹介したことがある。淡い水彩に、日々のささやかな感傷や季節の移ろいを滲ませるマンガ家である。また一方で、戦争を舞台に据えた、ヘビーな作品も書かれている。大好きな方なので、梨木さんの流れで迷うことなくそのインタビューを読んだ。ちょうど「ピスタチオ」読了後である。作品のモチーフ探しのために出かけた東北で、イタコに会ったという彼女の言葉。

 

─イタコに会ってみて、いかがでしたか。

 

 自分の亡くなった父親の話とかを聞きました。そもそもイタコって霊を降ろす人と言われていて、癒しを与えるような存在ではあるんですけど、私からしたら、依頼者のデータを全部頭のなかに叩き込んで、自分の中でストーリーを作って、相手が求めるものをちゃんと伝える、というものすごいフィクションの作り手というか、即興で物語を作ることができる作家としてのプロフェッショナルのように感じました。それで、イタコと作家の共通点を見つけたような気がしましたね。霊的な存在というよりは、物語を作るプロだと思いました。

 

─同じ物語の作り手として参考になったことはありましたか。

 

 作家というのは自分の作りたいものもあるし、一方でみんなに喜んでもらえるお話を作りたいということもありますが、イタコは完全に、みんなが求めているものを出すということが出来ているので、そこを見習わなきゃなと思いました。独り善がりにならない、というかやっぱり人を喜ばせるために作家という職業があると思い知りましたね。

 

(上記のHPより引用)

 

 「ピスタチオ」の中で、主人公は物書きをしている。彼女なりに言えば”クライアントの漠然とした希望を、より具体的で深みのあるところのものへと照準を合わせていく”らしい。そして、その職業に”発注があって、それに応えていく、ということに職人的な喜びも感じて”いる、とも。この物語の最後に、主人公は死者である”片山海里”のために物語を書く。

 

誰か、その人のためだけの物語を、心を込めてつくる。オーダーメイドなのだから、注文先の条件は出来るだけ聞く。そういう縛りの中で、できるだけ深く、その人のストーリーを汲み上げ、紡ぎ上げる。自分がこんな気持ちになるということは、誰かクライアントがいるのだ。誰かが自分に作品を発注しているのだ。誰かが、物語を必要としているのだ。自分はその「誰か」に応える仕事ができるのだろうか。けれど、と、棚は爪切りをしまいつつ、あきらめに似た確信を持つ。もう動いているのだ、物語は。

 

梨木香歩「ピスタチオ」より引用)

 

 「ピスタチオ」と「今日マチ子の言葉」との不思議な関連性に思わず鳥肌が立った。まあ、おそらく、深く心を動かされた後で”意識の中の一部分だけが妙にクリアーに”なっていたために、いつもなら読み過ごしていたはずの記述に照準が定まったのだろうが。

 

 「ピスタチオ」にはアフリカの精霊信仰、呪医をもモチーフとしている。日本の”イタコ”も同じ次元にいる存在だろう。”イタコ”は”口寄せ”をする。口寄せとは、”霊を自分に降霊(憑依)させて、霊の代わりにその意志などを語ることができるとされる術”らしい。また、”実際の口寄せは心理カウンセラー的な面も大きい”とも。イタコに”頼る人”はおそらく「死者の物語」がほしいのだろう。自分が、そしてその死者が、納得できる物語を。

 

 他の方々の「ピスタチオ」への書評を読んでゆく中で、面白い記事を見つけた。

 


ピスタチオ : 見知らぬ世界に想いを馳せ

 

 前の記事でも書いた通り、故・河合隼雄氏は梨木さんの恩師である。その河合氏と作家の小川洋子との対談集のタイトルが「生きるとは、自分の物語をつくること」だそうだ。不思議な縁を感じる。

 

一方、臨床心理も、自分の「物語」をつくれずにいる人が、自分の「物語」を発見し、生きてゆけるような「場」を提供していると河合先生も考えてカウンセリングをしていた。これにはなるほどと思った。小説を読んでいて、「これは私のことか!?」とまさに自分のことが書かれてある作品や文章に出会って、抱えていた悩みや重荷と感じていることが楽なほうへ向かうこともある。

 

(上記のブログより引用)

 

 本とは、もしかすると”自分の物語をつくれずにいる人”が物語を必要としているから、生み出されるのかもしれない。”自分の物語をつくれずにいる人”がクライアントなのかも知れない。全てがそうではないと思うが。

 

 死後、大きくはなくても、誰かにとって重みのある物語を残せるように、丁寧に丁寧に、自分の物語を紡いでゆきたいものである。