共感とは 2

 倫理の授業で第二次世界大戦時の映像を見た。

 

 昨年末のことだった。厳しい冷え込みの中、教室の隅に置かれたストーブの熱だけでは心許なかったので、こっそりマフラーを巻いていたのを覚えている。執拗に繰り返される重厚なメインテーマとどこか冷めた語り手の声がモノクロの映像によく合っていた。現代の哲学は、悲惨な戦争をもたらした近代文明の問い直し、人間の理性への批判から成っている、という理由で見せられたのだった。女子学生はかなり衝撃を受けていて、授業後気分が悪そうにしている子も見受けられた。教室を出て行きながら友人たちと「すごかったな」なんて簡素な言葉を口にするのは、また日常生活へと少しずつ移行していくための儀式のようだった。

 

 帰宅後調べてみると、予想通りNHKの『映像の世紀』から『第5集 世界は地獄を見た』だった。「授業という形式で、全員に問答無用で見せるなんて」と憤っている男子学生もいたが、正直なところそこまで凄惨な映像であるとは思えなかった。観賞中、私は劇伴や同時の生活様式、建物や車などに関心が向いて、深く胸を打たれるということがなかった。そのことに少し呆然とした。

 

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 NHKに『むちむち!』という番組があったのを思い出した。「女子高生の目線で、日本を旅する新しいドキュメンタリー」と銘打たれて始まった番組。東京・渋谷の女子高生を沖縄・普天間基地や四国のお遍路に連れ出し、現場を体験させるというものだった。

 

 普天間基地に連れ出されたのは渋谷の美容系高校1年生の美緒さんと彩花さん。”今風”の女子高生だ。NHKのディレクターは「普天間を肌で感じてもらう旅に出る」「行先は沖縄」とだけ伝える。「普天間」が何かを知らない2人はもちろん喜ぶ。そんな彼女たちが連れて行かれるのは普天間基地、戦争資料館。「頭蓋骨ってアトラクションとかおばけ屋敷でしか見たことない」「そういう気持ちで沖縄に来てたわけじゃないからちょっとびっくりした」と苦しみながら少しずつ言葉を紡ぐ2人。美緒さんは心情の吐露に際して広島弁が出ていたのが、何だかとても自然で素直で、胸に響いた。

 

 旅の本当の目的は「70年前の沖縄戦の悲劇を実感する」ことで、最終的な目的は「遺骨を収集する現場に立ち会う」ということ。NHKのディレクターに「行くか行かないか」を尋ねられた2人。美緒さんは「見るだけ見たい。やるのはちょっとできないかもしれない」。彩花さんは「待機で。死んだ人が興味本位できてほしくないと思ってるって私は思う。興味本位くらいなら私は待機していようと思った」とそれぞれの選択を下す。

 

 30年以上遺骨収集に取り組んでいる具志堅さんと共に、遺骨収集の現場に実際に立ち会った美緒さんは苦痛に顔を歪ませながら「怖い」と先に進むことを拒む。ディレクターに「何が怖い?」と訊かれても「何がって。怖い」と涙を流し、遺骨収集の現場に入れない。「凍りついて動けなくなってしまう。それをどうしてと聞いても答えきれない。何年もやっているうちに、薄れてしまっていた怖さなのかもしれない」「ずっとやっているうちにそういうのに鈍感になっていったのかな」と悲しそうに笑う具志堅さんの表情が頭から離れなかった。

 

 「戦争に巻き込まれないような未来をつくってね。それはあなたたちがつくることができるんだから」とだけ最後に語って、具志堅さんは帰って行った。「聞いたことも来たことも見たこともたぶん嫌でも覚えると思う」と少し怒りをにじませながら語る彩花さん。「”死にたい”とかそういう発言はしちゃいけないって思った。強く。生きたい人も亡くなっているから」と言う美緒さん。

 

 何も知らない惨劇を受け止めるには心の準備がいる。女子高生の”共感能力”への配慮を欠いた番組構成と、横柄なディレクターの態度と対照的に、問題を素直に受け止め、自分の頭で考え、自分の意志に基づいて行動する女子高生たちの知的で純粋な姿に胸を打たれた。「無知な女子高生」にNHKのディレクターが愛のムチを打つ番組とのことだったが、”教養のある”NHKのディレクター陣よりも、女子高生の方が感受性も配慮も思考力も礼儀作法も上で、結局「本当に無知なのはNHKのディレクターの方だった」というなんとも皮肉的な番組だった。

 

 お遍路に連れて行かれた女子高生にもまた感嘆させられた。予想とは違う旅の内容に不満をこぼす女子高生に対して、NHKのディレクターが「じゃあ帰る?」と言うと、「嫌だ。そうやって言われるの嫌い」と答え、何が嫌いかと問われれば「そういう自分が嫌いだから。そういう人が嫌いだから」と断言する。お遍路を”おもてなし”を行う側として実際に体験した旅の最後では「この人たちは当たり前のことを普通にやってるのに、それをうちらがやると”偉いね”に変わっちゃうのがなんか嫌で。なんだろうな、この人たちがやってることを当たり前に私たちができるようになりたい。このお遍路で”偉いね”ばかり言われていた気がする」と涙を流しながら答える女子高生の姿は何とも高潔だった。

 

 「無知」には「おろかなこと。知恵がないこと」という意味がある。しかし、女子高生は決して”無知”ではない。ただ”知らない”というだけだ。『むちむち!』はどうやら初回で打ち切りになっていたようだが、確かに制作側の気持ち悪さを感じた番組だった――のだが、世間の主な反感の矛先は私とは違っていた。「街でスカウトしたちょっとムチな女子高校生に、番組ディレクターが愛のムチを打つ、全体的にムチッとした番組です」という番組紹介に関して、だった。どこか性的なニュアンスを感じさせ、若い女性に対する蔑視、セクハラであるとして批判の声が上がっていたそうだ。男性である私は、その点に関しては何の違和感も抱かなかったので、何事も視点はそれぞれで、無意識の言動がセクシズムを孕む危険性があるのだと再認識させられたのだった。

 

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 『むちむち!』という番組のNHKのディレクター陣を批判したが、前述の倫理の授業中に感じた同級生との”ずれ”は『むちむち!』におけるNHKのディレクターと女子高生との”ずれ”と同じではないかと身につまされた。何事でも知識が深まると、感情の深度は浅くなる。それが体験を通じたものであったなら尚更だ。今年はちょうど戦後70年ということもあり、戦争の惨禍の映像を多く見てきたがゆえの、入り込めなさだったのかも知れない。思えば幼少期の方が何事にも深く共感しやすかったものだ。感動的な本の内容を思い出すだけで泣けたり、インターネットで猟奇殺人の記事を見て数日間気分が悪くなったり。

 

 今回、”共感”というテーマでこの記事を書いているが”共感”とは一体何だろうか。”芸術”と”共感”との交わり、そしてそれにより引き起こされる”感情”に的を絞って書いてみる。

 

 書籍や映画など、物語における共感は、登場人物に自己を投影し、感情移入することで得られることが多く、それにより感情が揺り動かされる。しかし、音楽における共感とは何か。言動が音楽に直結している類のシンガーソングライターの場合は、その人のパフォーマンスの尊さに感動したり、その発言に代弁を得たような気がしたりしたときにファンは共感できる。また、歌詞の情景に、ある思い出を想起したり、自分の体験を重ね合わせたりして共感、感動する形もある。西田幾太郎の言うところの純粋経験で芸術作品を楽しむことなど、普通はあり得ない。

 

 しかし、先日私は共感とはまた別の形で、ある歌手のライブで泣いた。曲を聴きながら、その曲を好んでいた当時の思い出を突如として想起し、現在の自分との隔たりを認識することにより、成長を感じられ、泣いたのだった。言わば、思い出の追体験ができたからだった。曲自体に、また歌手のパフォーマンスに感情移入したわけではなく、曲自体が”鏡”となり、感動したのだ。

 

 私は長らく芸術作品で感動するには共感が必要だと思い込んでいた。しかし、感情移入ができる/できないに関わらず、一連の感情の昂ぶりを引き起こす美しい流れがあり、それが突然弛緩するポイントが設けられ、一定のカタルシスが得られると人は感動するのではないかという考えに思い至った。ライブも終盤に差し掛かる頃だったので、曲順やパフォーマンスにおいて「一連の感情の昂ぶりを引き起こす美しい流れ」を味わい、初めてライブで聴けた好きな曲のイントロが「それが突然弛緩するポイント」となり、思い出のフラッシュバックという「一定のカタルシスが得られ」たために、私は感動したのだ。

 

 しかし、他の曲が”思い出のファクター”となってもおかしくはなかった。その曲で泣いた、ということはその曲に”思い出のファクター”と成り得るだけの力が、そして私がその曲を好きだと思う気持ちがあったから、という前提があるのには間違いない。以前私は「共感とは」という記事において、共感とは”相手を自分に引き寄せて発生させるもの”ではなく、”自分を相手に歩み寄らせて発生させるもの”だと書いた。そうなのだ、”共感”とは、”歩み寄り”なのだった。「共感は自分の意識の範疇を抜け出さないことは確かなのだろう。しかし、それゆえに”自分の側に相手の体験を受け止められる経験の蓄積が”ない場合でも、分かり合おうとすれば、歩み寄ろうとすれば、共感は必ず生まれるのだと思う」と、ちょうど一年前の私はそう書いていた。共感がなくても、感動できたのはその曲に”歩み寄れる”だけの愛着があったからなのだ。都合よく考えるとすれば、そこで私は過去の自分自身に”共感”したのかも知れない。

 

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まるで自分で見て聞いたように
話す奴ばっか
画面の向こうの悲しみの
一体何を知ってるっていうんだ

 

ネットもニュースも僕らも
毎日忙しい
ほんとか嘘かを放っぽって
騒ぎ立てる鳥の群れ

 

言葉はひどく罪深い
一番簡単な武器だ
名前のない怪物たち
名前が欲しくて振りかざすけど

 

巷にあふれる噂の陰で今日も死んでゆく誰かの名誉

 

 

(日食なつこ「ヘールボップ」より抜粋、引用)

 

 

 細い山道を車で走っており、カーブでうまく曲がり切れずに落ちてゆく――という類の夢を近頃続けて見た、という話を友人にしたところ、「バス事故のニュースを見過ぎたのではないか」と言われた。あまり真に受けなかったのだが、先日バスに乗っていると、運転手が異常な運転をし始め、しばらくしてバスが横転するという夢を見て、どうやらそうなのだと腑に落ちた。

 

 1月15日未明、長野県軽井沢町の山中でバスが横転し、14人が死亡したという痛ましい事故が起こった。亡くなった乗客の全てが大学生であったことが世間の関心を引き、メディアの取材は過熱。亡くなられた方の個人情報を連日散見し、何だか嫌気がさしてあまりニュースを目にしないようにしていた。

 

 

 今回のバス事故に際してうんざりした出来事がある。亡くなった方のTwitterアカウントが探し出され、そこでの発言があげつらわれたのだ。例え人道に悖るものだったとしても、故人の発言を都合よく抜き出し、撒き散らして、寄ってたかって罵倒するなど言語道断である。しかし、最近ふと新たな解釈――物事の気持ち悪さに対して腹の虫の居所をその場しのぎに設えただけかも知れないが――に思い至った。人望が厚く、確かな夢を持つ、前途洋々たる未来を持つ若者の尊い命が失われたことへの遣り切れなさ、同情、苦しみ、怒りを安易に誤魔化そうとして、「故人は聖人ではなかった」と、因果応報であると、”「死」に正当性を与える”行為なのかも知れない、という考えに。事故に深く思いを寄せ過ぎるあまり、被害者への共感が行き過ぎ、心が受け入れられる積載量を越え、精神の平穏が脅かされたことへの自己防衛なのだ、と。

 

 以前、母親に今日マチ子というマンガ家の『ぱらいそ』『いちご戦争』といういずれも戦争を扱った作品を見せたときのこと。『ぱらいそ』はストーリーものの作品なのだが、『いちご戦争』は「撃たれた飛び散る内臓はいちごとなり、戦線にはシロップの血が流れ、マシュマロ戦艦が沈んでいく」というように、戦争で死んでいく少女を兵器や腸に模したお菓子や果物と共に描いた画集だった。私たち若者世代――『むちむち!』の女子高生のような――からすると、戦争の惨禍をより触れやすい形で目にすることができる、というだけなのだが、母親からすると「今程規制が厳しくないテレビで昔見た戦争の死者の写真を思い出して、読むことができなかった」と、目を通せるものではなかったようだった。これも一種の自己防衛なのだろう。倫理の授業中での私の共感能力の欠如、注意力の散漫さも、多少都合よく捉えると、当時の人物に深くコミットメントすることで心に傷を負うのを避けた、ということなのかも知れない。

 

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 自己防衛といえば、教科書に載っていた鷲田清一の『ぬくみ』という評論に感じたことがある。

 

 電車の中で半数以上の人が、誰に眼を向けるでもなく、うつむいて携帯電話をチェックし、指を器用に動かしてメールを打つシーンに、もう誰も驚かなくなった。誰かと「つながっていたい」と痛いくらいに思う人たちが、互いに別の世界の住人であるかのように無関心で隣り合っている光景が、私たちの前には広がっている。

 

 

鷲田清一「ぬくみ」より引用)

 

 私は田舎で生まれ、田舎で育った。一日に会う人の数は限られおり、そもそも出会う人のほぼ全員の情報を知っている。初対面であっても、どこかで人間関係が繋がっていたりする。癖なのか、電車に乗るとどうしても同じ車両に乗り合わせている人々に目が行く。顔、行動、ファッション、家族構成もしくは関係性、イヤホンをしていなければ否応なく会話も耳に入ってくる。カップルが喧嘩しているとハラハラするし、泣き喚く赤ちゃんを必死であやすお母さんを見ると胸が痛むし、理不尽に人を罵倒する会話を聞くと憤ってしまう。目に入る全てに情動を動かし、共感しようと、歩み寄ろうとするとすると、ひどく気疲れし、自分が摩耗するような感覚に陥る。以前満員電車をやり過ごすコツは「周りに居るのが人間であることを忘れること」だというようなツイートを目にしたことがあるが、本当にそうだと思う。共感が自分の積載量を越えないように、イヤホンで耳を塞ぎ、スマホに目をやり視界を狭める、というのも一種の自己防衛なのだと思う。

 

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そもそもなぜ自分が戦争から目を逸らしていたのかについて考えると、怖いという思いが強かっただけでなく、描かれている人物にあまり共感できなかった、というのもあったと思います。日本では戦争に対して不思議な郷愁を感じやすいというか、憧れることはないにしても、描かれている悲しみや叙情性に惹かれやすい気がしていて。それもあって、主人公も一方的な被害者として描かれるのかもしれませんが、そこが不満だったのかもしれません。

 

 

(wotopi 「漫画家・今日マチ子と考える戦後70年」より引用)

 

 先程名前を挙げた今日マチ子は、マンガという媒体で戦争被害者の”聖”と”俗”の隔たりを埋めようとしている。『アノネ』というアンネ・フランクを題材にした作品では”健気な少女だけど、今の時代にいてもおかしくない、普通の感性を持った少女。なのに「日記の一部を読んだ世界中の人が、アンネを聖少女に作り上げてしまった」ことに違和感を抱き、彼女をモチーフにしたマンガを描くことで、「戦時下では無視されてきた、『少女たちの普通の姿』に光を当てたかった”と語る。

 

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wotopi.jp

 

 哀惜の念を表するあまり、被害者の人物像を白く塗りすぎると、黒い染みが自然と浮かび上がる。バス事故での被害者の方のツイートに私は驚かなかった。ただ、尊い命が道半ばで残酷にも失われてしまったというだけで、普通の大学生であることには変わらなかったはずだ。聖人のような扱いで、何事も美談に仕立て上げ、安易に視聴者の同情を、共感を誘うと、反感を持つ人は必ず出てくる。

 

戦争で亡くなるとどんな人でも、『純真無垢で、何も罪のない一般市民』のように語られてしまいがちですよね。もちろん、それもあるかもしれない。でも誰もが普通の人であるがゆえに罪を抱えているはずなので、そこも描かないと逆に、亡くなった方に失礼なのではないかとずっと思っていました。ユーカリが白い絵の具にこだわるのは、自分が白くないことをわかっていて、白に憧れているからなんです。

 

 

イミダス 連載 第6回 今日マチ子「戦争と想像力」より引用)

 

あくまでフィクションとして描けるのが漫画の醍醐味なので、政治的、思想的な意味は込めず、戦争について今自分が思うことを“記録”し、漫画としてちゃんと面白く読める作品にしたいと思いました。もちろん体験者の方々の実話が受け継がれていくことはとても大事ですが、漫画は「たかが漫画」だからこそ色々な人に読んでもらうことができ、そこがいいところでもあるので。

 

 

(wotopi 「漫画家・今日マチ子と考える戦後70年」より引用)

 

 例えば今回のバス事故で被害に遭われたのが、もっと年上の、もっと自分とは程遠い境遇の人であればこれ程までに心を動かされることはなかっただろう、ということは避けがたい事実だ。しかし、被害者の方の情報に、手軽な形で自らを歩み寄らせ、共感する、共感できていると思い込むという自分本位な共感の仕方は絶対にしたくない。自分の共感のキャパシティを認識した上で、情報に触れるということも大切だ。共感が誤った方向に進んだときの恐ろしさは想像に難くない。

 

 共感とは、”自分を相手に歩み寄らせて発生させるもの”だと書いたが、これもある種の危険性を孕んでいる。”歩み寄った相手”というのが、自分が勝手に作り出した妄想の産物かも知れないからだ。実際の"相手"と、”歩み寄った(と思っている)相手”との間に隔たりがあった場合、相手への好意がそっくりそのまま嫌悪に反転してしまう可能性がある。卑近な例になるが、俳優にしろ歌手にしろ――ある人物に熱をあげていた人が、その人物の”不祥事”で熱烈なアンチに変わる、というような場面は頻繁に目にする。

 

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 ヤマシタトモコの『ひばりの朝』という作品は、他者への認識能力の不確実さを気持ち悪い程に描き切った怪作かつ傑作だ。「日波里(ひばり)」というひとりの中学生少女を軸に繰り広げられる短編物語で、主人公は「ひばり」なのだが、短編のそれぞれが「ひばり」以外の登場人物の一人称形式で展開する。そこにあるのはただただ「主観」である。他者の主観だけを頼りに、そして「ひばり」の視点が不在のまま、「ひばり」という人間が歪んだ形で形作られてゆく。

 

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 Amazonのレビューにあった「共感できない人物と、共感しかできない人物達が織り成す悲しい物語」という言葉が言い得て妙だと思う。登場人物のひばりへの感情を”共感”とは呼びがたいが、少なくとも登場人物が”歩み寄ったひばり”はどこにも存在していなかった。”共感しかできない人”はその共感能力の高さゆえに相手の言動を自分と重ね合わせ、曲解してしまうきらいがある。また、”共感できない人”はそもそも相手に情動を寄せようという気がないために、相手を都合よく解釈することしかできない。対象にそもそも好意がない人はアンチになりやすく、対象に関心がありすぎる人もまた、幻滅からアンチになりやすい。作中で唯一、ひばりを全人的に正しく見られたのは、適切な共感能力を持ちながらも徹底的に無関心な女教師だけだった。

 

 レヴィナスの他者論によると、「他者」は「私」にとって操作できる存在ではなく、むしろ理解することすら絶対にできない存在だと言う。今一度、共感について、共感の仕方について考えてみなければならない時が来ている。

 

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家でも 職場でも
見下されるのが 私の仕事だが
傷つかず 良心も痛まない
ので
問題ない

 

…傷つかず 良心も痛まない

 

…手島日波里は


クラスメイトらの囁く噂のような子どもでは ない

大人の期待する淫らさを持ち合わせてもいない

見た目こそ妙に大人びて特異ではあるが

凡庸で 人並みに愚かで 人よりは少し臆病で まだ性の何たるかを知らない

 

それは そと見でなく
彼女を見れば
誰にでもわかる 簡単に

 

わかる のに

 

なぜ誰も

 

母親まで なぜ

 

傷つかない はずの 心が

なけなしの良心が

 

き し む

 

軋む

 

 

ヤマシタトモコひばりの朝」から女性教師のモノローグより引用)

 

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 共感について記事を書こう、と思いつつも今ひとつ筆が進まない中、敬愛する作家・梨木香歩岩波書店の『図書』1月号から往復書簡という形式で連載を始められ、1回目は『共感の水脈へ』というタイトルで、妙な偶然もあるものだと思わされた。全体を通して、文章の、文脈の美しい流れがあるため、一部だけを抜き出すのは嫌なのだが、仕方なく抜粋する。

 

 何か道があるはずだと思うのです。自分自身を侵食されず、歪んだナショナリズムにも陥らない「世界への向き合い方」のようなものが、私たちの日常生活レベルで。

 

 (中略)私はカリーマが、台所でタヒーナをつくってくださったときのことを思い出していました。真剣に、一心不乱に、クリーム状になった胡麻とレモン汁を少しずつ、少しずつ、混ぜ合わせていた。本来違う性質のものたちを、案配を見ながら、分離していかないように、調和のうちに溶け込ませていく。細心の注意を払って、少しずつ、少しずつ。

 早さや量に重きを置くのではない。それは、何グラムとか、何分、とか、そういう数字で測れるものではなく、こうやって人から人へ、気配と呼吸を感じながら伝わっていく「営み」なのだと、あのとき感銘を受けたものでした。

 エジプトの料理は、難しいわざや複雑なレシピとかはあまり関係なく、ただ人の根気と愛情がいっぱい入っている、だから、体にも心にも優しいものなのだ……。以前にお聞きしていたこのことばが、文字通りあのとき、血肉を通して、甦ってきました。

 私はそういうふうに、たとえばイスラームに、アラブに近づきたい。付き合いながら合点していく友人の癖や習慣を知るように、絶えざる関心の鍬をもって、深い共感の水脈を目指したい。そう願っています。

 

 

梨木香歩「共感の水脈へ」より抜粋、引用)

 

§

 

 先日、精神的に疲弊する出来事が続き、いっぱいいっぱいになっていたとき。もうどうしようもなくなっていたとき、早朝の5時だったにも関わらず、たまたま友人と連絡のタイミングが合った。あまり自分のことを話すのが得意でない上に、心の傷を誰かに伝えることが好きでない性格のために、苦労したのだが、ぽつりぽつりと受けた精神的な痛みについて、友人に語ってみた。直接会えばきっと言えなかったはずだが、電話の、近いようで遠いようで、でも近い、絶妙な距離感のお陰か、話すことができた。そんな中で、友人も自身の心の傷について語ってくれて、お互い共感することが多かったため「分かる」「分かる」と馬鹿みたいに言い合ったのだった。「自己」と「他者」はどうしたって他人であるし、どうしたって分かり合えない。でも、共通点を探ることはできるのだ。深い共感の水脈を探ることはできるのだ。日常生活における”共感”から、社会問題、果ては遠い世界に生きる人物への”共感”まで。どれだけ近しい人間であっても――例え肉親で合っても分かり合えないことは多い。日常から、距離的に、時間的に、精神的に。遠ざかれば遠ざかるほど、共感の水脈を探るのは難しくなる。しかし、しかし探り続けなければならないのだ。生きるためには。人と、関係を持って、生活するには。時には堰を築くことも大切なのだろう。共感の水が溢れてしまわないように。しかし、滞りなく、絶えず、絶えず、水脈を保たなければならない。全ての流れを塞いでしまえばたちまち、干乾びてしまう。

 

 安易な傷の舐めあい方、安易な共感の仕方はしたくないし、されたくもない。でも、あのとき。私は、確かに「分かるよ」という言葉に救われたのだった。とても。

 

 深い、深い共感の水脈に、清澄な水を。滞りなく流せるように。これからも私なりの”共感”の形を探し続けていきたい。

 

 

雑記 / テレビ・生きること・インプット

 別にブログに書くほどの内容でもないのだけれど、Twitterに垂れ流すのもどうかなあと思って。

 

 

 

 夕べ溜めていた録画を半分ほど消化した。内訳は、『日曜美術館「夢のモネ 傑作10選」』『テクネ 映像の教室「ループ」』『SWITCHインタビュー 達人達 「日野原重明×篠田桃紅」』『スーパープレゼンテーション「生命をデザインする 合成生物学の最前線」』『プロフェッショナル 仕事の流儀「雑誌編集長・今尾朝子」』。全てNHK

 


 『日曜美術館』のモネ。ちょうど粟津則雄著の『美の近代』という「光と闇」をテーマにモネとルドンを対比し、その対称性と共通性から近代の美の特質を示すという新書を読んだばかりだったため、モネに対する理解がより深まった。白内障を患い、失明の危機に瀕する最中、79歳のときに制作された『睡蓮』。『美の近代』の中に、あるアメリカの女流画家に語ったモネのこんな言葉が記してあり、まさにこの『睡蓮』と響き合うものだった。3月1日から21日まで京都展で『印象 日の出』を含む、モネの傑作の数々が鑑賞できるようなので、春画展の巡回と共にぜひ参加したい。

 

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 「絵を描くときには、自分の前にあるものが何であるかを忘れる必要があるんですよ。樹であろうが家であろうが野原であろうがその他何であろうがね。そしてただこう考えるんです。ここには小さな青い四角がある。ここには薔薇色の長方形がある。またそこには帯状の黄色があるというふうにね。そしてただあなたに見えた通りに描くんですよ、正確な色と形で。眼前の風景に感じられる率直な印象が表現されるまで」

 

 

 『テクネ』のループは、1980年のズビグ・リプチンスキーという1949年ポーランド生まれの映像作家の1980年『Tango』という作品と出会わせてくれた。1983年アカデミー賞(アメリカ)最優秀短編アニメーション作品。ズビグ氏はジョン・レノンの『イマジン』のMVなども担当されている著名な方だそう。無知だった。YUKIの『YUKI concert tour“Flyin' High”'14~'15』というツアーで、衣装替えの時間にお伽噺のプリンセスたちがループする映像が流されていたのだが、どうやらそれの元ネタのようだった。紹介された映像の中で気に入ったcyriakの『Cycles』も合わせて載せておく。

 

www.wat.tv

 

www.youtube.com

 

 

 『SWITHインタビュー』での、104歳日野原重明103歳篠田桃紅の対談は圧巻だった。「もっといいものが描けるはずだと思っている。だからできたものが気に入らない。私には謙虚な気持ちがない」「よくいえば自由、悪くいえば自堕落」という篠田さんの歯に衣着せぬ痛快なお言葉。「その瞬間、瞬間が本当の生き方。瞬間の中に生き方のエッセンスがある」という日野原さんの齢の重みのある晦渋なお言葉。「命とは与えられたもので自分で作ったんじゃない。与えられた命を芸のため、絵のため、人のため、命を出すことが生きていく上で大切なこと」。「生きることを許される限り自分がどう生きがいを持って与えられた命を終えるか」。聖路加の院長として4000人もの患者を看取ってこられた日野原さんのお言葉。篠田桃紅さんのあっけらかんとした立ち居振る舞い、素直なお言葉はとても好きだった。「何にもやりたいことがない」という若者の言葉に対し、篠田さんは「老いたる人のやっていることが若い人には憧れたくない。憧れられない」とし、「老いているものの責任」だと仰られていたが、私は日野原さんと篠田さんの生き方を垣間見て、長生きしたい、100歳まで生きてみたいと思わされた。

 

 

 『スーパープレゼンテーション』も面白かった。MITの准教授ネリ・オックスマンによる合成生物学を伝えるTED。「自然にとっての母」になるという言葉が印象的だった。メディアラボが30年前にできたとき、まだ世の中にコンピュータというものは普及していなくて、創始者のニコラス・ネグロポンテがデジタルという言葉を世に広めたそうだが、その彼が今「Bio is the new degital.」だと言っているそう。これから、ありとあらゆる分野――日常生活においても――バイオは普遍的なものになるらしい。改めて、ビョークの『Biophilia』やアンリアレイジの衣服における先見の明に脱帽。文系なものでどうしても理系の分野は敬遠しがちだが、たとえ理解が追い付かなくても、きちんと最先端の技術に触れておくこと、自分の理解の範疇には置いておくことは大切だなと再認識させられた。何をするにも、どこに進むにも、もうバイオを無視することはできないのだから。

 

 

 『プロフェッショナル』のVERY編集長・今尾朝子さんも良かった。紙面をひとつ作ることの大変さ。普段雑誌を読む上で気にも留めない言葉のひとつ、レイアウトのひとつが、編集者の、ライターの、デザイナーの、何時間にも及ぶ苦悩の末の最善の形であることを、頭の片隅に留めながら、何を読むにも何を聴くにも、丁寧に味わうようにしたい。独りよがりにならずに、常に読者が何を求めているかを追求すること。"答え"を全て自分で出さないこと。仮想で話をしないこと。心に深く刻んでおく。

 

 


 NHKの番組には全幅の信頼を寄せていて、ここのところ8~9割はNHKを観ているため、独り暮らしを始めても喜んで受信料を払わせていただく所存なので、NHKの集金の方はどうぞ素早くおいでなさってください。溜めた録画はあと半分ほど残っているので、明日中には観ておきたい。受験生でもなければ、大学生でもない。"何にでもない"この数か月。できるだけ多くのことに触れ、味わい、吸収し、咀嚼して、できるだけ多く自分のものにしておき、大学生活のありとあらゆるアウトプットの大いなる糧にしていきたい。

 

 

2015年 ベスト アルバム 30枚(邦楽・洋楽)

 ベストアルバムの文化は終わった。

 

 

 Twitterのタイムラインを眺めていると、そんな文言をしばしば目にする。今回この記事を書くにあたって、過去の自分のツイートを遡っていると、2013年は1年で下記の数だけアルバムを聴いていたらしい。今年は受験があったということもあるが、アルバムという単位では187枚も到底聴いていない。確かに、新譜を大量に聴いて、順位づけて、SNSで発信するという文化は瀕死に近いのかも知れない。しかし、しかしである。例え分母が少なかろうが、胸が震える、何度も何度も聴きたくなるアルバム、曲に出会えたのは今年も変わらない。私は、その素晴らしい音楽を世間に広めたいし、感動を共有したい。別にアクセス数が多いブログでもないし、影響力のある人物でもないが、一介の音楽マニアとして今年もベストアルバムを発表しようと思う。しかし、順位をつける、というのはもうやめたい。邦楽・洋楽、アルバム・単曲関係なく、好きな音楽をただただ垂れ流す記事にしたい。

 

 

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安藤裕子 Premium Live 2015 ~Last Eye~ @大阪中央公会堂 12.04(金)

 「2013 ACOUSTIC LIVE」以来となる大阪市中央公会堂で、「安藤裕子 Premium Live 2015 ~Last Eye~」の初日公演が行われた。

 

 

 思い切りネタバレをしていますので、ご理解をいただける方のみ読み進めてください。

 

 

 近年、アコースティック形式のLIVEはサンケイホールブリーゼで開催されていたので、過去の記憶と照らし合わせるようにネオルネッサンス様式の瀟洒な内装を愛でつつ、今回のライブに相応しい落ち着いたジャズが流れるSEを聴きつつ、開演を待つ。金曜日の夜ということもあり、スーツのお客さんが目立つ。暖かい場内の空気と日中の疲れから、少しうとうとする中、開演時間を5分ほど過ぎてLIVEが始まる。

 

 

 赤い照明のもと、「いらいらいらい」のイントロを彷彿とさせる1コードのガレージロック的な山本タカシさんのギターリフが不穏に響き、そこに山本隆二さんのピアノが浮遊感のあるスケール外の異音を乗せる。てっきり、「いらいらいらい」が始まるものとして身構えていたため、「いつだって僕らは」と安藤裕子さんが1曲目から張りのある伸びやかな声で場内を満たしたとき、瞬時に理解が追い付かなかった。そう、くるりの「ワールズエンド・スーパーノヴァ」のカバーである。"今回のLIVEは初期の曲や、懐かしの曲をたくさんやろうと思います"(*1)とインタビューで答えられていたので、いきなりカバーかよ!!とツッコミそうになったが、「大人のまじめなカバーシリーズ」に収録されている2つのバージョンの「ワールズエンド・スーパーノヴァ」、そのどちらとも違う、また新たな解釈の素晴らしいカバーだった。2番のAメロでピアノが裏拍でコードを刻み、ビートを攪乱しつつ、訪れるサビ前の一瞬のブレイク。1000人ほどのこじんまりとした会場と、舞台に真摯に対峙するファンが生む完璧な静寂、そしてそこからの熱量の再放出。アウトロの安藤さんのフェイクが最高に気持ちよかった。繰り返される「どこまでも行ける」の歌詞に呼応する、空高く突き抜けていくような、荒野を走り抜けていくような力強さを持つ、絶妙なフェイク。一回だけ「いつまでも行ける」と歌ってしまい、安藤さんの顔がその直後ほころんだように見えたが、空耳と錯覚だろうか。

 

(*1)下を参照

www.hmv.co.jp

 

安藤裕子ライブ情報&本人コメント動画が到着! - YouTube

 

 

 続くのは、ヴァイオリンのCHICAさん、チェロの篠崎由紀さんによるストリングスが弓で弦をはじき(スピッカートというのだろうか)、その上にフランス風のピアノが加わり、 諧謔的なアコギのメロディが乗るという、パスカルコムラードやクリンペライを想起させる、壊れたおもちゃ箱みたいなアヴァンポップ調のイントロが面白い「み空」。2013年のアコースティックライブでの何かが憑依したような鬼気迫る「み空」も圧巻だったが、ティム・バートンのお遊戯会とでも評したくなるような軽快な今回のアレンジもまた素敵だった。「廻る」のリフレインを抜けたサビの広がりは、ストリングスが入ることでより爽快に感じられた。「傷は舐めて癒えるもの 膿んだふりなんて見せつけないでよ」のCメロ明けの間奏を経たサビは、途端にシンプルなピアノの伴奏のもとで幼く歌われ、涙を誘う。ラストの「美空など諦めて」を「美空など焼き捨てて」と珍しく歌詞間違いをしていたのが、少し面白かった。もし「Acoustic Andrew」が発売されるなら、ぜひ収録していただきたいアレンジだった。

 

 "お元気ですか?"という安藤さんの呼びかけに沈黙する観客席。ワンテンポ遅れて"元気です!"と応じる男性に"優しい人だね"なんて言いながら安藤さんのMCが始まる。"しばらくアイドルと妖怪(*2)を行ったり来たりしていたが、近頃妖怪に寄りすぎた""何かほっこりした曲をやりたい"ということで、SNSでファンにアンケートを取るも、コアなファンの選曲はそれぞれ独自色が強く、"もはや集計を取るに値しないほど割れに割れた"そうで、"どうセットリストを組むべきかよく分からないまま初日を迎えた"とのこと。"皆さんにとって懐かしい曲なのかは分かりませんが、聴いてください"と前置きして、歌われたのは「ドラマチックレコード」。ここで、ストリングスが一度抜ける。

 

(*2)「グッド・バイ」のツアーである「Live 2013 HELLO & goodbye」にて、「絵になるお話」を歌う姿を"アイドル"、「いらいらいらい」「獏砂漠」を"妖怪"と自ら評していた。

 

 

 LIVEで歌われるのは恐らく、「LIVE 2010 "JAPANESE POP"」ぶりじゃないだろうか。左記のツアーには参加できていないので、私個人としてはLIVEで聴くのは初めてで、何とも嬉しい選曲だった。 2009年に福岡のテレビ局の音楽番組「チャートバスターズR!」の企画でアコースティックスタジオライブが行われていたそうなのだが、そこでのバージョン(下に参考動画)に近かった。優しいアコギの伴奏はまるで麗らかな草原のように、まろやかなファルセットがそこに吹く柔らかい風のように、会場を温かい空気で満たしていく。ピアノもそっと添えるだけ、椎名林檎さんのサポートでもお馴染みの鳥越啓介さんによる深みのあるウッドベースの安定感がまた心地よく。ストリングスが加わることにより、散らかりそうになるアコースティック編成を、ベースが支えつつ、ぐっと引き締めていて、安藤さんも仰られていた通り、今回の編成が正解のような印象を受けた。

 

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 "この会場、こんなに暗かったっけ?""客席が全然見えない"というMCがまさか伏線になっているとは気づかないまま、「あなたと私にできる事」へ。アコースティックライブらしい、ミドルテンポの味わい深い曲が続く。静謐な音のうねりに身を委ねていると、じわじわと熱を帯びるアウトロの盛り上がりに鳥肌が立つ。ウッドベースを揺れながら奏でる鳥越さんが色っぽかった。暗い会場の中、山本タカシさんの丁寧に磨かれたギターのボディに照明が反射し、フラッシュのように瞬いていた。あまりの心地よさに夢見心地になっていたが、"まだ4曲目ですよ、私のα波ボイスで眠たくなっていませんか?"と安藤さんに見透かされていた。

 

 "夕べ寝ずに練習したんですが、自分と程遠い曲調なので歌詞もメロディも全然体に入らなくて……""なにせ音楽性に乏しいので"と自虐しつつ、クリスマス曲に関するMCが続く。"私、最初セットリストにクリスマスの曲を入れてなくて""そしたら、マネージャーが「ええっ」って困惑していて、そういえばSNSで大々的に募集していたな、と"という発言に安藤さんらしいと苦笑しつつ、"HPで宣伝していたものは仕方ないと入れてみたけれど、全然間に合わなかったので歌詞をガン見しながら歌おうと思います"という発言に笑いつつ。"リズム感に自信のある人?"という安藤さんからの呼びかけに、最前列の方が手を挙げるも、鈴を渡す際には"本当だろうな?"と煽る安藤さん。"ちょっとあんまりな感じなので、客席が暗い状況で歌える自信がない"というセリフに先程のMCの理由を合点して。客席が明るくなり、安藤さんが鉄琴を奏で、イントロが始まる……も、高音部で音が鳴らず。それも、御愛嬌。

 

 イントロだけだと何の曲かさっぱり分からなかったので、「I don't want a lot for Christmas」という歌いだしに驚く。なんと「All I Want for Christmas Is You(恋人たちのクリスマス」のカバーだった。謙遜されていたものの、やはり普通に上手くて歌手ってすごいと当たり前のことを改めて実感。ゴスペル歌手さながらのサビの張り上げが圧巻だった……が、安藤さんは自分がそういう一面を出しているのがおかしいのか時々吹き出しそうになっていた。2番から、山本隆二さんはピアノでなく、トイピアノらしきものを弾かれており(下に参考画像)、かわいらしい仕上がりに。宣言通り歌詞をガン見しながらの歌唱だったが、「All I want for Christmas is you」の歌詞の部分だけはきちんと正面を向いて歌われていた。余裕が出てきたのか途中から踊りもつけ、アイドル安藤裕子を存分に発揮。華やかなエンディングで曲も終わりかと思いきや、安藤さんの鉄琴ソロがアウトロでも入る模様。しかし、やはり高音部は出ず。めちゃくちゃハイレベルな宴会芸を見せられたような気分になった。安藤さんのLIVEは何故か見る側も緊張するのだが、アットホームな雰囲気に思わず笑みがこぼれ、張り詰めた空気が弛緩していった。

 

 

 

 "それ、また使うからちゃんと返してね"と渡した鈴を取り返しつつ、"熱い"と連呼する安藤さん。遠くからなのできちんと視認できたわけではないが、スカート部分がゴールドのサテン地、胸の部分は灰色に黒のT字のラインが入ったワンピースの上に、青いカーディガン、紫のタイツに青い靴という装い。"熱いけど、二の腕を見せたくないから(青いカーディガンを)絶対に脱がない"と仰られていたが、結局中盤で脱がれていた。"山場は越えたので、ここからはまた真剣に歌いたいと思います"というMCの後、ミドルテンポバラードの「唄い前夜」が続く。

 

 1曲目として歌われた、2013年のアコースティックライブのアレンジに近かった。寂寥感のあるアコギのイントロで始まり、2番からピアノとウッドベースが加わる。そのままのメロディとコードがいいために、限りなく音を排しても、むしろ曲の持つ良さが引き立つ。日頃耳にする積み重ねられた音楽もいいけれど、耳をそばだてれば一つひとつの楽器が奏でるメロディを追うことができるシンプルなアレンジと、そこに溶け込む安藤さんの歌声がただただ気持ちいい。山本隆二さんはフェデリコ・モンポウ、特に「ひそやかな音楽」(*3)がお好きだそうだが、その静謐さにはどこか近しいものを感じる。

 

(*3)モンポウに関しては、こちらのサイトが詳しい。

モンポウの世界 - Federico Mompou's world

 

 

 再びストリングスが加わり、「ニラカイナリィリヒ」へ。イントロの主旋律をストリングスが奏で、例えるならBjörkの「Joga」のようなクラシカルで深遠なアレンジに。エレキギターの唸りが深い森に響く動物の吠え声のようで、ピアノが繰り返す一定のコード進行は、生で聴くとヴォイシングの妙がより感じられた。2番からはBPMを速め、激しさを増すピアノとボーカルに焦燥感に駆られる。そのままの勢いを保ちながら、山本タカシさんのカウントを経て、安藤裕子最高速のシングル「パラレル」へ。

 

 ドラムレスというのに凄まじい熱量でもって押し寄せる音の塊に圧倒されながら、素朴なのに一つひとつの言葉が強い、究極のラブソングといっても過言ではない歌詞を堪能する。Cメロの「you know my guilt」の部分は青い照明の中、赤いランプが点灯し、CD音源より複雑に感じられるピアノの不協和音、荒れ狂うストリングスが不安を煽る。限りない緊張の後のブレイクに息を飲まされ、ラストの「君がすき」という最高音の絶唱が胸に響く。観客に拍手をする隙を与えないように、山本隆二さんが最後の一音を保ちながらそのまま次の曲へ。

 

 不穏なピアノ、何かに突き動かされるように同じ音を同じリズムで刻むベース、絶妙に不安定で浮遊感のある旋律を奏でるストリングス、ギターはシューゲイザーのように混沌に滲む。秋の大演奏会での「エルロイ」のアレンジを彷彿とさせる、怪しく、暴力的でありながらも、耽美なサウンドのもと、安藤さんが譫言のように英詞を口走る。新曲か、それともカバーか分からないまま曲が進み、苛立ちを放出させるように「Hello」という歌詞が繰り返され、ふと気づく。ニルヴァーナの「Smells Like Teen Spirit」だ。サビはまさに「叫び」だった。安藤さんの喉が心配になるほどの「叫び」。山本隆二さんのお好きなRobert Glasper Experimentがこの曲をカバーしているが、ジャジーなアレンジのそれとは別物だった。3ピースとは全く違ったベクトルのアレンジなのに、カート・コバーンがこの曲で表現している苛立ちがそのまま詰まっていた。「Hello」の部分の変遷するコード進行のリハモが素晴らしかった。あともう少しで壊れそうなのに、ギリギリのラインで踏みとどまっている危うさ。山本隆二さんのこの手の前衛的なアレンジは堪らなく好きだ「A denial」――「拒絶」を連呼し、楽曲が終わると、カバー曲にも関わらず観客席から声が上がった。安藤さん本人も仰られているが、このカバーが聴けるのが3公演だけというのがもったいない、名演だった。

 

 

 

 "どうしよう、何か喋ろうと思っていたのに、素に戻ってしまった"という独白する安藤さん。"生死を歌う曲が増え、曲に飲み込まれるのが怖くて、仮面の部分が強くなり、ついつい喋りすぎるようになった""ディレクターからは「それ、やめなさい」と注意されるんだけれど……""はよくMC中に素に戻って何を喋っていいか分からなくなっていた"という言葉に、昔の――といっても、3年前くらいなのだが――安藤さんのLIVEに思いを寄せる。近頃、急にMCが上手くなられ、観客をトークで笑わせることもしばしばあるが、数年前までは安藤さんのMCの出来なささと、ボソッと呟く言葉の面白さに笑いが起きていたことや、MCが途切れ途切れすぎて、ファンから「その服どこの?」「何食べた?」なんて声が上がっていたことなどを思い出した。安藤さんは"どうしよう"と不安そうな表情だったが、きっと私だけでなく、他のファンも皆「それでいいんだよ」「それがいいんだよ」と心の中で声を掛けていたはずだと思う。個人的には、久しぶりに安藤さんの素の部分、弱さが垣間見られてどこか安心した。"私は元気です"とMCの最後に脈絡なく、誰に言うでもなく呟かれていたのが印象的だった。

 

 徐々にアコースティックライブらしからぬ音の膨らみを見せる展開だったが、ここで少しクールダウン、ピアノだけのシンプルなアレンジのもと、透徹なファルセットが冴えわたる「忘れものの森」へ。中央公会堂は前述の通り久しぶりだが、本当にいい会場だと思う。古い酒造がその蔵だけの酵母を持つように、長い年月をかけて会場に沁みこんだ音の歴史の重みが、サウンドをより深く醸成しているような気がする。最後の音が消えてゆくとともに、照明に安藤さんの涙がきらりと光った。

 

 「夜と星の足跡 3つの提示」のイントロが始まった瞬間、本能的に「泣く」と察知し、途端に瞼の奥から熱いものが込みあげ、突然のことに自分でも戸惑った。いつの間にか涙が一筋頬を伝い、そこからは何が何だか分からないまま、溢れるように涙がこぼれた。LIVEで泣くのは初めてのことだった。中学1年生、安藤さんを聴き始めたばかりだった頃、冬の空、冷たい風の中、街灯もない田舎道に美しく煌めく夜空、塾の行き帰りの道に合い、よく聴いていた曲だった。中高の思い出が走馬灯のように駆け巡っていく。音楽の趣味は色々変わってきたが、安藤さんだけは指針のように常に聴いていた。数日前に大学に合格し、急いでチケットを取って、参加できた今回のLIVE。ご都合主義じみているが、安藤さんからの餞別のように感じた。アウトロの歌詞カードにない部分はかなり音が高いが、CD音源の繊細なファルセットとは違う、がなるような、声が割れた歌い方をされていて、そのハスキーな叫びに心を打たれた。安藤さんとの出会いの曲ではないけれど、この曲は確かに安藤さんとの思い出の曲だった。本当に、来て良かった。ありがとう。

 

 "曲が作れなくなっていた"という発言にはとても驚いた。以前何かのインタビューで"音楽は生活の中で勝手に出てくるものだから、スランプはない"と仰られていたし、ここ最近にそんな素振りは感じられなかったからだ。"ディレクターのアンディ(安藤雄二さん)が「作れないなら、もらえばいいんじゃない」と言ってくれた""3月に「頂き物」というアルバムを出すが、これは私に曲をくれたこれは10人の優しい人たちと、支えてくれる周りのスタッフのお陰でできたアルバム"。

 

 "親しくない人とは付き合わず、親しい人にはわがままな性格で、友だちというものがあまりいません""でも、10周年を境に、少しずつ音楽業界の友だちも増えてきた""そんな中で昨年は特にイベントに呼ばれることが多くて、年末のTKくんとの対バンに向けて「今年は出会いの年だった」という話をしたら、TKくんが「じゃあこれが今年最後の出会いですね」と言って「Last Eye」というタイトルがついた曲をくれた""宇宙のイメージの曲です"というMCを受けて、ちょうどLIVEの前日に先行配信されたばかりの新曲「Last Eye」へ。

 

 映画音楽のような、ドラマチックさを持つ楽曲。音源とほぼ同じと思われる今回の編成にサウンドがよく映えていた。「そして僕がいつも淹れたげるコーヒーには 口をつけない君 世界が冷えてく」というどこかTKさんっぽさを感じる2番のAメロの歌詞が好きだ。会場の外で吹き荒れているであろう冷たい冬の風のような高音のファルセットと、熱いチェストボイスの混じり合いが美しかった。サビ前のピアノリフに初めてメロディが乗り、徐々に強さを増すピアノソロの後の「まだ見えないよ」のサビ、壮大なストリングスには鳥肌が立つ。盛り上がりを終え、またピアノだけのアウトロが奏でられ、まるで遠い宇宙に行って帰って来たような心持ちになった。

 

 続く「The Still Steel Down」は打って変わって深い森にいるような照明に。届かない恋心が歌われる切ない歌詞に、次々とメロディが変遷していく独特の構成、力強いサビ。究極的に安藤裕子らしい曲だと思う。「ねえ溢れ出す想いを木の葉に刻んでも 雪がいつかそれを隠してくれるのなら」という詞が今の季節によく合っていた。昨年末のプレミアムライブでも演奏された曲だが、何度聴いても嬉しい名曲だ。

 

 "3公演しかないので、LIVEを育てていくのは難しい""でも、色んな感情をもらえた舞台でした。本当にありがとうございました"というMCを挟み、「走り出し 落ちかけた夕陽を追う」という歌詞に合わせたのだろうか、夕暮れのような赤い照明の中、感傷をそそるイントロから「歩く」へ。ヴァイオリンとチェロしかない、小編成のストリングスだからこそ、二声の弦の美しい絡み合いをじっくり味わうことができた。目を閉じて、サビの昂ぶり、何かを確かめるように繰り返されるラストの「夜は走り去る」を聴く。長く続いた夜は終わった。曲が終わり、目を開けると、そこには水色の中に眩い光が滲む、朝焼けのような照明があった。

 

 ラストはやはり「聖者の行進」。歩くの後に、行進。生きていくには歩き続けなければならない、ということか。安藤さん本人も覚えていらっしゃるか分からないが、かつて昔のインタビューを色々と探している中で、「Middle Tempo Magic」の頃のあるインタビューを見つけ、そこで「聖者の行進」の歌詞の由来を語られていた。"夜遅くにTVを観ていると、NHKのドキュメンタリーで、中学生特集がやっていた""私たちが子どもの頃は将来の夢は自由だったが、今の子どもは堅実な職業を選ぶようになったらしい""夢は決して叶うとは限らないものだけれど、幼い頃に見た夢が大人になってから支えになったりする""子どもたちに自由に自分の夢を持ってほしいと思って書いた曲です"というようなことを――多少脳内で脚色しているかも知れないが――仰られていた。ラストの歌詞カードにはない「身を焦がされても失くさないで 夢見てくれたらいいの」という歌詞に安藤さんのその想いを感じることができた。祈りのような出だしから咆哮のようなラストの歌声、静から動へ行進していくバンドの演奏でもって、力強く本編が終わった。

 

 アンコールに、安藤さんに加え、山本隆二さんと山本タカシさん、それから鳥越さんが出てくるも、山本タカシさんが鳥越さんに耳打ちし、鳥越さんは舞台袖にはけていった。"いつもの3人で演奏しようとしていたら、今回初顔合わせの鳥ギョエさんが(噛んでいた)出てきたので、タカシくんが眼力で追い返しました"と安藤さんが笑いを取る。アコースティックライブでお馴染みの、しかしこの前のアコースティックライブでのギターは設楽博臣さんだったため、少し久しぶりのW山本コンビのもとで歌われたのは「六月十三日、強い雨。」。アコースティックライブを始めるきっかけとなった長崎という地に感化されるように書かれた、アコースティックライブの初心を思い出すこの曲。ストリングスやウッドベースが入る華やかな編成もいいけれど、帰るべき場所はこことでもいうような、長い旅から帰って来たみたいな安心感があった。

 

 "私はいつもここで物を売る人にならないといけないんですが、この会場は退館時間が厳しいので、手短にいきます"と、いつもの物販をスピーディーに済ませた後、最後のMCへ。"今年は色々と考える年でした""みんな、生きろ――ってもののけ姫みたいになりましたけど""どうかお元気で、生きてください。またお会いしましょう"という別れの言葉に続くのは、IIm9の不安定なイントロ。松任谷由実さんの「A HAPPY NEW YEAR」だった。もちろん聴いたことのある曲だったが、今回安藤さんのボーカルでしっかり聴いてみて、そのセンスに脱帽した。なかなか主和音が登場しない、揺蕩うようなコード進行のもと、VII♭7を効果的に用いながら、メロディがきちんと展開していく様は、年末のあの何とも言えない高揚感と年の瀬の寂しさを体現するかのよう。原曲に忠実なアレンジだったが、確かにこの曲はアレンジする余地がない名曲だなあと実感した。クリスマスから、年末へ。そしてまた、新しい1年を迎えよう。

 

 「問うてる」はすっかりエンドロールの貫禄がある。2番前の間奏の山本タカシさんのアコギのソロがカッコよすぎて、痺れた。ジャジーで軽快なアレンジ、しかし歌われるのはあくまでも生きることの諦念、そこが安藤裕子らしい。「平凡に生きる毎日だけじゃなくて 悲しみさえ求めて」私たちは生きていく。ラストの「ラーラーラー」で、シャイなファンの皆さんと心の奥底で繋がったような感覚を受けながら、懐かしの曲から王道曲まで満遍なく楽しむ中で色々な感情を得ることができた最高のLIVEが終わった。

 

 また来年も、安藤さんのLIVEをたくさん見られますように。

 

 


「セットリスト」

 

 

01.ワールズエンド・スーパーノヴァ(「くるり」カバー)
02.み空
03.ドラマチックレコード
04.あなたと私にできる事
05.All I Want for Christmas Is You(「Mariah Carey」カバー)
06.唄い前夜
07.ニラカイナリィリヒ
08.パラレル
09.Smells Like Teen Spirit(「Nirvana」カバー)
10.忘れものの森
11.夜と星の足跡 3つの提示
12.Last Eye
13.The Still Steel Down
14.歩く
15.聖者の行進

 

 

(アンコール)
16.六月十三日、強い雨。
17.A HAPPY NEW YEAR(「松任谷由実」カバー)
18.問うてる

 

 

 

Vocal, Glockenspiel:安藤裕子

Electric & Acoustic Guitar:山本タカシ

Wood Bass:鳥越啓介

Violin:CHICA

Cello:篠崎由紀

Piano, Toy piano, Bandmaster:山本隆二

安藤裕子 × スキマスイッチ 「360°サラウンド」 レビュー | 歌詞 & コード解説

 ※前置きが長くなってしまったので、歌詞に興味のある方はスクロールしていただければありがたいです。

 

 安藤裕子スキマスイッチのコラボシングルが出る。

 

  そんなニュースを聞いたのが、4月の末。安藤裕子さんの大ファンで、スキマスイッチ(敬称略)も大好きな私からすると、これ以上ない最高のコラボ。思えば安藤裕子さんとスキマスイッチが昨年末5回にわたり対談したFM802の「徒然ダイアローグ」内で「また、コラボができたらいいね」なんて話していたけれど、まさかこんなに早くその夢が実現するとは思いませんでした。

 

 スキマスイッチを初めて認識したのは――恐らく大多数の人がそうでしょうが御多分に洩れず――「全力少年」だったと思います。発売されたのが2005年なので、もう10年前。安藤裕子さんを本格的に聴き出したのが5年前。彼女の出世作「のうぜんかつら」が使用されている永作博美出演のあの名作CMを目にしたり、レイザーラモンHGに絡まれていたMステ出演を何となく覚えている(気がする)ものの、安藤さんよりスキマスイッチの方が付き合ってきた期間は長い。なんだか不思議です。

 

 前述の「徒然ダイアローグ」で「ゲノム」や「パラボラヴァ」などを聴き、興味が出て買ったセルフタイトルアルバム「スキマスイッチ」の他、「奏」「ガラナ」「ボクノート」「ユリーカ」など挙げればキリがない数々の代表曲やタイアップ曲を耳にしてはいるものの、堂々と「ファン」と呼べるほど曲は知りません。しかし、J-POPのメインストリームに長年君臨しながらも良質な楽曲群を発表し続けるスキマスイッチの堅実な活動姿勢に尊敬の念を抱いていることは確かです。

 

 スキマスイッチの魅力は幾つもあると思いますが、そのひとつが「歌詞」であることは間違いありません。ファンだからこそ言えますが、安藤裕子さんの歌詞は分かりにくい気がします。大体の意味は掴めるものの、多数の比喩が散りばめられた抽象的な詞が多く、ひとつひとつの言葉を理解するのは難しい(「夜と星の足跡 3つの提示」「グッド・バイ」など)。ただ、ひとつひとつの言葉が分からないが故に、もっと奥深いところで理解できるような気がするのも確かですし、その歌詞がメロディと合わさって、安藤さんの声を伴って歌となり、こちらに向けられた瞬間、とてつもない感動を呼ぶことが彼女の「詞が好き」というファンが多い所以でしょう。

 

 対するスキマスイッチの歌詞は「分かりやすい」と思います。「分かりやすい」というのは「簡単」だとか「単純」といったことではなくて、より「普遍的」という意味で。日常における小さなエピソードを、美しい日本語の組み合わせで、より広い意味合いに敷衍してゆく――そういう歌詞の組み立て方をするアーティストとして「スキマスイッチの右に出るものはいない」とまで、ライトリスナーですが、思います。あと、言葉とかストーリーに押しつけがましさがなくて、素直に耳に沁み込んでくる。メロディに対する言葉のハマり方が絶妙っていうこともあるんでしょうが、何より説教臭さがない。懐が広くて、ニュートラルな印象を受けます。メロディやアレンジに関しても同じように思います。その辺りが、音楽に対するこだわりの強さはとてつもないものの、スキマスイッチが広く長く大衆に受け入れられている理由なんじゃないでしょうか。

 

 実は安藤裕子さん、ご自身が作詞されていない楽曲を本人名義で出されるのは初めてです(東京スカパラダイスオーケストラ沖祐市さんの「Gospel」というアルバムでゲストボーカルとして歌われた「真夜中の列車のように」は同じく東京スカパラダイスオーケストラ谷中敦さん作詞ですが、本人名義ではないので)。「アルバムの風通しをよくするために」1枚のアルバムにつき1曲は外注曲(末光篤さん a.k.a. SUEMITSU & THE SUEMITH、宮川弾さん、GREAT 3の白根賢一さんなど)があるものの、ゲストボーカルとして参加されている楽曲に至るまで、前述の「真夜中の列車のように」以外は全て本人作詞です。その、初の他人が書いた詞がスキマスイッチで本当に良かった、と安藤さんファンとして思います。

 

 そんなこんなで前置きが長くなりましたが、安藤裕子さんとスキマスイッチのコラボシングルである「360°サラウンド」の歌詞がこちらです。一部、聞き取れなかった部分があるので、コメント欄などで教えていただければ嬉しいです。

通りすがりの方に教えていただきました!それに伴い、一部加筆修正させていただきました。

 

 

舞い踊る水しぶきが午後の気温 あげてく

ほら 指さす方 青空

夏の朝の空気のように ワクワクする気持ちのまま

君と二人 創造していけたらいいなぁ!

 

打ち付けている 今年初めての夕立

360°(ぜんほうい)のサラウンド 街中を包む

この音が止んだら 始まる僕たちの夏

雨宿り 並んで 見上げて 待ってる

 

手をつなぐたび 君とのcm(センチ)を測っていたい

不安定な空みたいに 行ったり来たりもするけど

 

舞い踊る水しぶきが午後の気温 あげてく

ほら 指さす方 青空

夏の朝の空気のように ワクワクする気持ちのまま

君と二人 創造していけたらいいなぁ!

 

僕らが抱える シアワセに潜んだ少しの不安

でも雨がないと 生きられない それこそリアリティ

 

日常の中の幸福度を検知できたなら

2人でいること 巻き起こる全てが愛しい

 

雨上がり 街路樹が 爆発したように夏をまとう

ほら 子どもたち 駆けてく

3、2、1で歌い出す 蝉たちのこの季節のアンセム

響いていけ 濡れてたTシャツが乾いてく

 

ヒリヒリと痛いくらい 今年も焼き付けてくよ

 

雨上がり 街路樹が 爆発したように夏をまとう

ほら 太陽が急かしてる

 

照らされたアスファルトが最高気温 あげてく

ほら そびえ立つ入道雲

いまさらギュッと掴んでいなくたって

消えたりしないと油断していたら

君が手を ほどいてちょっと前を歩いて

 

僕を見透かして 笑ってる

 

 

 (安藤裕子「360°サラウンド」より引用 ©スキマスイッチ

 

 

 そしてこちらがその楽曲。日本初の技術を使った(と「めざましテレビ」で言っていました)MVが面白いです。AndroidiPhoneの「YouTube」アプリ、PCだとChrome ブラウザなどで、このパノラマの新技術が楽しめるそうです。Björkがニューアルバムの「Stonemilker」という曲でこの技術を使っていたのを見て「ほー やっぱりビョークはすげえ」なんて思っていたのですが、まさか安藤さんのMVで使用されるとは思いませんでした。タイトルにぴったりの技術で、まさにナイスタイミング!

 

 


安藤裕子 / 「360°(ぜんほうい)サラウンド」 ‐MV‐ - YouTube

 

 

 先日、この曲がFM802で先行公開されたとき、安藤さんとスキマスイッチのコメントが流れていました。その中で安藤さんが「うわー 坂道から美少女 自転車で漕ぎ降りてきて 浜辺でザザーンってやって なんか飲んだー」みたいなイメージだと仰られていて笑いましたが、まさにその通りの「スプラッシュ感」溢れる楽曲、そしてそれに相応しいどこを切り取っても夏らしい歌詞。そういえば、そのコメント内に

 

常「この曲を聴いて安藤裕子さんってこんな明るいんだって誤解してもらえたら」
安「どんだけ暗いイメージなんですか私(笑)」
大「スプラッシュ感」
安「でも私やっぱりジメッとしたイメージありますからね」

 

 なんて面白い会話もありました(笑)。

 

 流麗なストリングスセクションだけをバックに、サビから始まるこの曲。「夏の朝の空気のように ワクワクする気持ち」って部分が好きです。夏の朝、清々しい風と照り付ける日差しに、これから始まる1日への期待を否が応でも膨らまさせられる、あの独特な空気。そんな気持ちのように「君と二人」で、これからの未来を創造してゆけたらいいな。「想像」じゃなくて「創造」ですよ!夢がビッグです。

 

 楽曲の始まりとこの曲の「二人」の夏の始まりを盛り立てるように、徐々に楽器が増え、バンドサウンドが厚く、熱くなってゆくAメロ。「360°サラウンド」って夕立の音のことか!と合点。絶妙に入ってくるコーラスがまた、曲をより爽やかに。夕立の中、主人公の男の子と「君」が並んで雨宿りをしている情景の叙述説明がなされます。スキマスイッチの夏ソングといえば「切ない」歌詞の「アイスクリームシンドローム」が思い浮かびますが、こちらは「甘酸っぱい」。だって「始まる 僕たちの夏」ですからね。友情って名前のシンドロームから踏み出せないでいる彼に聞かせてあげたいです(笑)。

 

 マーチングのような急き立てるドラムが印象的なBメロ。「不安定な」という歌詞と合わせたわけではないでしょうが、ここのコード進行が絶妙に「不安定」なのですが、その話は後ほどのコード解説で。サビへの期待を煽る、いい橋渡しのBメロです。

 

 サビはなんといっても飛躍の激しい流れるようなメロディ!なんとこの曲、使用されているメロディは2オクターブちょっとあるんです。「ド」から次の「ド」までが1オクターブです。それが2つ分プラスちょっと。カラオケだとなかなか歌いづらいんじゃないかなあと思います。さすが大橋さん。でも、サビのメロディ展開がドラマチックなのは安藤さんの楽曲もそうです(「Paxmaveiti」「青い空」など)。そんな難しい曲をもたつくことなく難なく歌える、安藤さんのボーカリストとしての能力を改めて感じさせられました。歌詞は冒頭と同じ。四つ打ちリズムのドラムに「売れそう」って思ってしまいました。最近の邦ロックの常套手段(KANA-BOONの「ないものねだり」など)らしいですし。

 

 MVでも雨雲が出てきていましたが、2番のAメロは少し不穏な影が。少しの不安=雨がないと生きられない。植物はもちろん、人間だって「日差し」だけで成り立っているわけじゃないですよね。「雨」がないと。「少しの不安」があって初めて「シアワセ」が引き立つ。まさにそれこそリアリティですね。

 

 Bメロは1番とドラムのリズムが変わり、飽きさせません。「幸福度」ってオリジナルの言葉が面白いです。二人でいるということだけで、巻き起こる全てが、日々の小さなシアワセのひとつひとつが愛おしい。甘い!!(笑)

 

 そして、2番サビ前の一瞬ブレイクを挟んでの佐野康夫さん(じゃないかなと思っているのですが、別の方かも知れないです)のフィルインaikoの「あの子の夢」のイントロを彷彿とさせる(佐野康夫さんのドラムです)、初聴時にあっけにとられる、「入りをミスったんじゃないか」と一瞬訝ってしまう、でも最高に気持ちがいい絶妙なもたつき感。こういう一筋縄ではいかないちょっとした工夫が、最後まで飽きさせずに楽曲を聴かせてくれます。さすがの山本隆二さんのアレンジです(山本さんは安藤裕子さんのデビュー時から今までのほとんどの曲のアレンジ、LIVEでのバンドマスターを務められています。スキマスイッチでもLIVEのサポートをされているそうです)。

 

 「雨上がり 街路樹が 爆発したように夏をまとう」。この表現、すごいなあ。木の葉に溢れる水滴が光を乱反射させて、夏の熱気をもその葉のひとつひとつにまとう、あの雨上がりの瞬間が詩的に沁み込んできます。「アンセム」が聞き取れたのは我ながらよく聞き取れたと(笑)。蝉の鳴き声が夏のアンセムだなんて、素敵です。

 

 重厚なストリングスに軽やかなグロッケン。次々と変遷していくコードが面白い間奏を経て、一瞬のブレイク。安藤さんの「ドラマチックレコード」のラストサビ前のブレイクをふと思い出しました。思わずハッとさせられます。

 

 いよいよクライマックス。「色づく」の部分で、「おっ?」と思ってしまいました。「づ」が少し噛んでいる気がして。しかし、ここ、安藤さん及び安藤裕子チームの音楽にかける情熱が感じられる部分だと思います。安藤さんの楽曲って全て一発録りなんですよね。楽曲には、ドラマーだけとってみても、矢部浩志さんに沼澤尚さんに、佐野康夫さん、伊藤大地さんなどの名うてのスタジオミュージシャンが参加されおり、エンジニアは渡邊省二郎さんです。世界的なマスタリング・エンジニアTed Jensen氏からの評価も高い渡邊省二郎さん。そういえばスキマスイッチのアルバム「スキマスイッチ」のエンジニアも渡邊さんでした。業界最高峰の技術に裏打ちされた、スキマスイッチに勝るとも劣らない安藤裕子チーム(通称、ディレクターの安藤雄二さんの苗字をもじり「チームアンディ」と呼ばれています)の音楽制作にかけるこだわりが伝わる、一発録り。いくつものテイクから良い部分を継ぎ接ぎしてまとめる手法は今や普通ですが、そういう安易な音楽制作はしない。ここだけ録り換えれば、違和感はなかったのでしょうが、そんな野暮なことはしない姿勢が好きです。

ここ、そもそも歌詞を聞き間違えていたので安藤さんは噛んでいませんでした……。申し訳ないですし恥ずかしいですし、消したい部分ですが、ここを消すと一発録りと渡邉さんの件が無くなってしまうので、自分への戒めも込めて、残しておきます。

 

 キーを1つあげたラストのサビは畳みかけるような最後の歌詞が堪りません。男の子と女の子の関係性がよく伝わって、なんだか甘酸っぱいです。「君が手を」の「手」の部分、1番と2番にも同じ部分がありますが、なんと!!最後だけ半音下がっているんです!!ブルーノートと呼ばれるものなんですが、スキマスイッチの楽曲にはよく登場します。aikoの曲を想像してもらえば分かりやすいと思いますが、少しソウルフルな印象を受けると思います。ラストだけ変えてくるなんて、ニクい!

 

 上のYouTubeにアップロードされたMVではカットされているようですが、1分ちょっとあるアウトロはアレンジの妙で、最後まで高揚感を煽ってきます。エレピ(フェンダー ローズかな?)の入り方がもっさんらしい。グロッケンなんかもラストでまた彩りを添えてきて。本当に息つく暇のない程、盛りだくさんな曲でした。スキマスイッチの詞と曲、山本隆二さんのアレンジ、安藤さんのボーカル。3者のとてつもない化学変化が味わえる、名コラボでした。

 

 

 ……と、長々と書いてきましたが個人的にはここからが本題です。記事タイトルにもありますが、コード解説です。今まで詞について書いてきましたが、この曲、音楽的にもすごい。スキマスイッチの楽曲はコード進行が難しいことで有名ですが、昨年の音霊での対バンで安藤さんが「全力少年」を歌われたあと、大橋さんが「僕らの曲のコードって難しいんですが、それが更に複雑にされていて、今あれを弾けって言われても僕ら再現できないですよ」と仰られていたことからも分かるように、チームアンディの音楽的頭脳・山本隆二さんのおつけになるコード進行は更に難解です。「この音が来たなら、このコードが必ず来る」みたいな部分もたくさんあるので、スキマスイッチ(多分、鍵盤の常田さんがメインなのでは?と推測しています)のお2人がおつけになられたコードを元にして、山本さんがリハーモナイズされたのではと思っています。「自分の曲だとそんなに時間がかからないプリプロが今回は難航した。キーを変えてみたり、構造を変えてみたりしてやっと形になった」と安藤さんも仰っていたので、スキマスイッチのデモからも、かなり変更があったよう。そんなコードがこちら。

 

 全てを理解できる方は少ないとは思いますが、スキマスイッチと安藤さんの音楽の複雑さを少しでも体感していただければ幸いです。

 

 

 

 

 

(*1) | | は1小節を表しています。

(*2) / は左側がコード、右側がベース音を表しています。

(*3) ( ) 内はテンションを表しています。

(*4) 便宜上、1番と2番の繋ぎ目や間奏を[ Bridge ]と表記しています。

 

[ C (サビ) ] (Key=D♭)


| D♭ | A♭m / B | G♭M7(9) | G♭mM7 |

| Fm7(11) | D♭m /E | E♭m7(11) Fm7(♭11) | G♭m7 A♭ |

| D♭ | A♭m / B | G♭M7(9) | F7(♭13) Adim7 |

| B♭m7 | E♭7(9) | E♭m7 Fm7 | G♭M7 A♭7 |

 

[ Bridge 1 ]

 

| D♭ | A♭m / B | AM7 | A♭ |

| E F# |

 

[ A ](Key=B) 

 

| B  Em / B | B  F# / A# | G#m7  B / F# | C# / F |

| E F# | Gdim G#m7 | C#m7 F# | G#m |

 

| B  Em / B | B  F# / A# | G#m7  B / F# | C# / F |

| E F# | Gdim G#m7 | C#m7 F# | B |

 

[ B ]

 

| EM7(9) | B / D# | C#m7(11) D#7(♭11) | G#m F#m7 |

| Fm7-5 B♭7 | D#m7 Bm / D | C#m7 | D#m7(11) / G#  G# |

| F# / G#  G# |

 

[ C (サビ) ] (Key=D♭)

 

| D♭ | A♭m / B | G♭M7(9) | G♭mM7 |

| Fm7(11) | D♭m /E | E♭m7(11) Fm7(♭11) | G♭m7 A♭ |

| D♭ | A♭m / B | G♭M7(9) | F7(♭13) Adim7 |

| B♭m7 | E♭7(9) | E♭m7 Fm7 | G♭M7 A♭7 |

 

[ Bridge 2 ]

 

| D♭ | E F# |

 

[ A ](Key=B)

 

| B  Em / B | B  F# / A# | G#m7  B / F# | C# / F |

| E F# | Gdim G#m7 | C#m7 F# | B |

 

[ B ]

 

| EM7(9) | B / D# | C#m7(11) D#7(♭11) | G#m F#m7 |
| Fm7-5 B♭7 | D#m7 Bm / D | C#m7 | D#m7(11) / G# G# |

| N.C. |

 

[ C (サビ) ] (Key=D♭)

 

| D♭ | A♭m / B | G♭M7(9) | G♭mM7 |

| Fm7(11) | D♭m /E | E♭m7(11) Fm7(♭11) | G♭m7 A♭ |

| D♭ | A♭m / B | G♭M7(9) | F7(♭13) Adim7 |

| B♭m7 | E♭7(9) | E♭m7 Fm7 | G♭M7 A♭7 |

| D♭ (2 / 4) |

 

[ Bridge 3 (間奏) ] (Key=E)

 

| E | F# | AM7(9) G#7 | C#m7 E7 |

| AM7 | A#dim7 | G#m7-5 | C#7 |

| DM7(9) | DM7(9) | C#sus4 C#M7 | F#sus4 F# |

 

[ B ] (Key=B)

 

| Fm7-5 B♭7 | D#m7 Bm / D | C#m7 | D#m7(11) / G# G# |

| N.C. |

 

[ C (サビ) ] (Key=D♭)

 

| D♭ | A♭m / B | G♭M7(9) | G♭mM7 |

| Fm7(11) | D♭m /E | E♭m7(11) Fm7(♭11) | G♭M7 A |

 

(Key=D)

 

| D | Am / C | GM7(9) | GmM7 |

| F#m7(11) | Dm / F | Em7(11) F#m7(♭11) | Gm7 A |

| D | Am / C | GM7(9) | F#7(♭13) A#dim7 |

| Bm7 | E7(♭9) | Em7 F#m7 | GM7 A7 |

| D A / C# | CM7 B7 | Em7 F#m7 | GM7 |

 

[ Outro ]

 

| D | Am / C | GM7(9) | GmM7 |

| F#m7(11) | Dm / F | Em7(11) F#m7(♭11) | Gm7 A |

| D | Am / C | GM7(9) | F#7(♭13) A#dim7 |

| Bm7 | E7(9) | Em7 F#m7 | GM7 A7 |

 

| B♭M7  Gm /B♭  B♭M7 | B♭M7  Gm / B♭  B♭M7 |

| Am / C  C  Am / C | Am / C  C7 C |

| B♭M7  Gm /B♭  B♭M7 | B♭M7  Gm / B♭  B♭M7 |

| Am / C  C  Am / C | Am / C  C7 C |

| B♭M7  Gm /B♭  B♭M7 | B♭M7  Gm / B♭  B♭M7 |

| Am / C  C  Am / C | Am / C  C7 C |

| B♭M7  Gm /B♭  B♭M7 | B♭M7  Gm / B♭  B♭M7 |

| Am / C  C  Am / C | Am / C  C  Am / C |

| D |

 

 

 ……いかがでしょうか?ゴチャゴチャしていて見づらいところからも、この曲の複雑さを理解していただけると思います。かなり丁寧に表記しましたが、基本的にテンションはメロディがコードに対してテンションになっている部分なので、プレイされる際には省いてもらって大丈夫です。「セブンスコードが多くて弾けない……」という場合は、セブンスは省いてもらっても雰囲気は味わえると思います。ラストは普通に「B♭M7→C→D」と表記すれば分かりやすかったと思いますが、原曲のピアノの忠実な感じで表記しました。あと、あくまで耳コピですので、実際のコード進行と異なる部分があるかも知れません。悪しからずご了承ください。

 

 それでは、コード解説にいきます(ようやく)。使用されている音楽理論の名称は分からないけれど、興味があるという方は下記のサイトが非常に見やすく、分かりやすく、面白くまとまっていますので参照ください。

 

soniqa.net

 

 

(Key=D♭)

 

| D♭ | A♭m / B | G♭M7(9) | G♭mM7 |

| I | Vm / VII♭ | IV | IVm |  

 

| Fm7(11) | D♭m /E | E♭m7(11) Fm7(♭11) | G♭m7 A♭ |

| IIIm | Im / III♭ | IIm IIIm | IVm V |

 

| D♭ | A♭m / B | G♭M7(9) | F7(♭13) Adim7 |

| I | Vm / VII♭ | IV | III V#dim |

 

| B♭m7 | E♭7(9) | E♭m7 Fm7 | G♭M7 A♭7 |

| VIm | II | IIm IIIm | IV V |

 

 

 曲の順番に沿って、いきなりですがこの曲の肝、サビのコード解説。この曲、キーがあと1つ下か1つ上だったら取りやすかったんですが(ハ長調が含まれるので)、#が5つのロ長調(特にピアノ曲以外のクラシックだとめったに見ないです(*1))と♭が5つの変ニ長調なので、シャープやらフラットやらがいっぱいなんですよね。そのため、コードの下にディグリーネームでの表記もしておきました。赤字は特に注意すべきコード。

 

(*1)ヴァイオリンでは音階に開放弦の音が一つしか含まれず主要三和音では倍音の響きが極めて乏しい。(WIkipediaより)

 

 まず注目すべきはいきなり登場するA♭m / B。なぜ、こんな突飛なコードがいきなり来ているのかといいますと、いきなりノンダイアトニック・トーン、つまり非正規の音が使用されているんです(「まいおどる みずしぶき」の赤字になっているところがそうです)。ディグリーネームで表記すればVII♭なのですが、簡単にいうと「ドレミファソラシ」が正規の音なのに「シ♭」が使用されているんです、それもいきなり。A♭mはドミナントマイナーなのでノンダイアトニックコード――この場合はその中でもモーダルインターチェンジ、同主短調からの借用となっています。「I→V / VII」という展開はありふれていますが、「I→Vm / VII♭」となると格段に珍しくなります。安藤裕子さんだと「愛の季節」のサビの入りが同じ進行です。ノンダイアトニックコードには個人的に浮遊感を感じます。そして、「ずしぶ」とノンダイアトニック・トーンが使用されたあと、次の「」でいきなり1オクターブ近い飛躍があるので、なんともいえない浮遊感、そして爽快感が感じられると思います。

 

 続く「G♭M7→G♭mM7」というサブドミナントからサブドミナントマイナーの進行。基本的に構成音は同じなんですが、マイナーになることで「シ♭」が「ラ」に半音下がって、なんとも渋みのある響きになっていると思います。安藤裕子さんだと「ようこそここへ」のサビの入りが同じ進行です。

 

 そしてDm♭ / E。歌詞だと「ほら」の部分です。ここ、いきなり体ごと落っこちてゆくような重力を感じませんか?ベース音が「ファ」から、これまたノンダイアトニックトーンの「ミ」に半音下がっているんです。ここは多分、スキマスイッチではなく山本隆二さんによるものだと思います。おそらくこの曲では上記のように鳴っていると思いますが、III♭7やIII♭M7でも代用可能です。安藤さんだと「シャボンボウル」の「どんどん流れて お空」の「」の部分、坂本真綾さんの「SAVED.」でもサビ終わりの「私に光を与えてくれたか」で効果的に使用されています。山本さんアレンジの醍醐味です。

 

 G♭m7もまた、飽きさせない工夫ですね。「IIm→IIIm→IV→V」の同じ進行になっている部分、2回目はG♭M7なんです。本来は左記のコードを使用するのが普通なのですが、同じ繰り返しじゃあ面白くないということで1回目にモーダルインターチェンジであるG♭m7が使用されています。

 

 F7→Adim7はセカンダリードミナント。いくつかあるセカンダリードミナントの中でもIII7は断トツに使用頻度が高いので覚えておきましょう。平行調である変ロ調からの借用なので、物悲しさを感じると思います。間にディミニッシュを挟んで、ベース音をじわじわあげることで、より物悲しさがぐんぐん迫って来ていると思います。III7はVImに進む働きがあるので(上に書きましたが、変ロ(=B♭)短調のドミナントなので、主和音である)B♭mに解決。続くE♭7もB♭からすると、四度上への強進行となり実に自然な流れです。

 

 

(Key=D♭)

 

| D♭ | A♭m / B | AM7 | A♭ |

| I | Vm / VII♭ | VI♭ | V |

 

(Key=B)

 

| E F# |

| IV | V |

 

 

 冒頭のサビからAメロへと移行する部分のコード。ここは特に言うこともないですが、強いて言えばAM7ですかね。これもモーダルインターチェンジ。さっきからモーダルインターチェンジは何度か出てきましたが、日本語は同主短調変換と言います。同主短調(例えばハ長調だとハ短調)のコードを借りる技法です。スキマスイッチだと「SF」の前半部分のピアノリフがモーダルインターチェンジをうまく使用した浮遊感のあるコード進行です。セブンスが入り、ピアノで弾けばちょっとお洒落な響きに、三和音でギターで弾けばロックな味わいになります。後半のE→F#はもう既にロ長調です。ロ長調サブドミナントドミナントです。

 

 

(Key=B)

 

| B  Em / B | B  F# / A# | G#m7  B / F# | C# / F |

| I  VIm / I | I  V / VII | VIm  I / V | II / IV# |

 

| E F# | Gdim G#m7 | C#m7 F# | G#m |

| IV V | V#dim VIm | IIm V | VIm |

 

 

 いやあ、実によくできたAメロです。シンプルで、無駄がない。まず、特筆すべきはいきなり登場するEm、サブトミナントマイナー。ここは、多分山本さんの手によるものだと。メロディに対するコードの当て方が絶妙で、なんだかクラシカルな響きを感じませんか?

 

 そのままベース音が滑らかに下がってゆき、C#へ。このコードもセカンダリードミナントです。ドミナントであるVに向かうセカンダリードミナントなので、このコードだけ特別にダブルドミナントとも呼ばれています。もちろん、ノンダイアトニックコードなので「F」という本来のスケールにはない音が含まれているのですが、それをメロディに絡ませています。さすがスキマスイッチ

 

 後半部分は、III7(先程も紹介しました、「物悲しい」コードです)の亜種であるV#dimを混ぜつつ、今度は上昇クリシェ。ベース音に綺麗に上がっています。最後はツーファイブを経て穏やかにトニックへとシメ……かと思いきや、偽終止G#m。偽終止というのは、ハ長調でいえば「ドミ」で終わるはずのところを「ドミ」とマイナーコードでシメることを意味します。マイナーコードになるので、少し陰を残すんです。なぜ、ここで偽終止が使われているかというと、1番だけAメロが2回繰り返しなんですよね。そこで、変化をつけるために1回目のメロ終わりを偽終止にしています。もっさんの縁の下の力持ち的な心遣いです。2回目は同じ繰り返しですが、ラストはB、「偽」じゃなくきちんとトニックに終止しています。

 

 

(Key=B)

 

| EM7(9) | B / D# | C#m7(11) D#7(♭11) | G#m F#m7 |

| IV | I / III | IIm III7 | VIm Vm |

 

| Fm7-5 B♭7 | D#m7  Bm / D | C#m7 | D#m7(11) / G# G # |

| IV#m7-5 VII7 | IIIm  Im / III♭ | IIm | IIIm / VI  VI

 

| F# / G#  G# |

| V / VI  VI |

 

 

 これまたいいBメロ!ちゃんとBメロしつつ、最大限変わったことをしています。出だしはサブドミナントメジャーナインスと、かなり多い音数のコードでどこか寂しさを感じさせる出だしです。そこから下降クリシェ、そしてIII7をはさみつつドミナントマイナーで終了。そして問題はここからです。

 

 さっきのラストから滑らかに半音下がったFm7-5から強進行でセカンダリードミナントであるB♭7へ。ディグリーネームで表記すればVII7ですが、このコード、セカンダリードミナントの中で断トツに使用頻度が低いです。なぜなら「II#、IV#」というノンダイアトニックトーンが2つも含まれていて、下手したら調性まで変えてしまうことになりかねないからです。先程の歌詞の部分でも書きましたが「不安定な空みたいに」という歌詞に呼応するように「不安定な」コード。VII7の着地先はIIImなのでD#m7に、そしてサビの「ほら」の部分にも出てきた浮遊感のあるIm / III♭へ半音下降。ジェットコースターみたいに跳ね回るコード進行に振り落とされないように必死ですが、IImにこれまた半音下降したあと、なんとここでD#m7 / G#→G#。全てダイアトニックトーンですが、これが変ニ長調のツーファイブであるE♭m7 / A♭→A♭(全く同じ音で、表記の仕方が違うだけです)に当たるので、転調先の変ニ長調へ華麗にアプローチ。ラストにダメ押しでF# / G#→G#。皆さんついてこられましたでしょうか……?スキマスイッチと山本さんに振り回されっぱなしです。安藤さんもこの歌いにくいメロディを加工もなしで難なく歌いこなしています。これだけ複雑なことをしていながら、こうして気にして聴かない限りはサラッと耳を流れてゆくんですよね。そこがすごいところですし、カッコいいです。

 

 サビは冒頭と同じ、2番も基本的に同じなので、このまま間奏へ行きます。

 

 

(Key=E)

 

| E | F# | AM7(9) G#7 | C#m7 E7 |

| I | II | IV III | VIm I |

 

| AM7 | A#dim7 | G#m7-5 | C#7 |

| VI | VI#dim | IIIm7-5 | VI |

 

| DM7(9) | DM7(9) |

| VII♭ | VII♭

 

(Key=B)

 

| C#sus4 C#M7 | F#sus4 F# |

| IIsus4 II | Vsus4 V |

 

 

 間奏はもうムチャクチャなので(理論的には一分の隙もなく完璧なのですが……)説明すらしづらいのですが、少しでも理解していただければ。コードもわりと色々な取り方ができると思います。キーは普通にロ長調として取ろうかどうしようか迷ったのですが、ホ長調として取るのが自然かなと思います。一体何回目の転調なのか……。トニックからそのままIIへ。ちょっとワルイドな印象を受けます。そのままサブドミナントからセカンダリードミナントであるIII7へ。何度も出てきたのでもう説明は要りませんよね。そして、ここの部分。ストリングスのメロディは全く一緒(2小節単位で一区切り、それが2回繰り返されています)なのですが、当てられるコードが変わっていて面白いです。「」はEからすると構成音なのですが、AM7からすると9thでテンションになっていて。A#dim7のディミニッシュを挟みつつ、セカンダリードミナントC#7に強進行で進むためにG#m7-5を配置。ラストはモーダルインターチェンジDM7で浮遊感のあるコードを響かせつつ、半音下げてsus4を織り混ぜたロ長調のツーファイブで綺麗に転調。なんとも鮮やか。安藤さんでいうと「絵になるお話」の間奏もこんな感じです。キーボーディストである山本さんだからこそできるアレンジ。ギターじゃなかなか作れない進行です。

 

 そしてロ長調のBメロを挟んで、ラストのサビへ。ラストは変二長調から1つ上の二長調にサビのメロディを丸ごと移調。使用されているキーは3つ全体で8回も転調しています。もう何が何だか……という感じです。そりゃあ、写譜屋さんも愚痴ります。 

 

 

 

 

(Key=D)

 

| D  A / C# | CM7 B7 |

| I  V / VII | VII♭ VI |

 

 

 ラストはキーが変わっただけで、コードは今までのサビと基本的に一緒なので「君が手を ほどいてちょっと前を歩いて」の後のタメの部分を。といっても、ベースが半音に下がってゆくだけ、ですが。ストリングスのアレンジと相まって、実に効果的なタメです。

 

(Key=D)

 

| B♭M7 | B♭M7 | C | C | ×4

| VI♭M7 | VI♭M7 | VII♭ | VII♭ |

 

| D |

| I | 

 

 

 アウトロもサビのコード進行の繰り返しですので、MVではカットされているラストのコード進行を。坂本真綾さんの「SAVED.」や安藤裕子さんの「世界をかえるつもりはない」のラストでも同じような進行が用いられていますが、VI♭→VII♭→Iのモーダルインターチェンジを挟んでトニックへ解決する、非常に浮遊感のある、ロック色の強いコード進行。aikoが親の仇みたいに使うコードです。何だかこの記事、安藤さんとスキマスイッチに次いでaikoの名前が登場しましたが、aikoのメインアレンジャーである島田昌典さんもキーボーディストなので、おつけになるコード進行が山本さんとわりと近いんですよね。それでよく名前を出しました、っていう言い訳です(笑)。ラストまで解説のしがいのある、複雑だけれど押しつけがましさはない、でも骨太なコード進行でした。ややこしい内容でしたが、ここまでお読みいただいた方がいらっしゃれば、書き手冥利につきます。ありがとうございます。

 

 

 15000字を越える長い記事となりましたが、スキマスイッチ安藤裕子さん、そしてアレンジャーの山本隆二さんの最高のコラボレーションを楽しむ一助になれば幸いです。カップリングの「うしろ指さされ組」のカバーと、Instrumentalを楽しみに7月29日まで待ちます、それでは!

 

 

360°(ルビ:ぜんほうい)サラウンド

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