安藤裕子 Premium Live 2015 ~Last Eye~ @大阪中央公会堂 12.04(金)

 「2013 ACOUSTIC LIVE」以来となる大阪市中央公会堂で、「安藤裕子 Premium Live 2015 ~Last Eye~」の初日公演が行われた。

 

 

 思い切りネタバレをしていますので、ご理解をいただける方のみ読み進めてください。

 

 

 近年、アコースティック形式のLIVEはサンケイホールブリーゼで開催されていたので、過去の記憶と照らし合わせるようにネオルネッサンス様式の瀟洒な内装を愛でつつ、今回のライブに相応しい落ち着いたジャズが流れるSEを聴きつつ、開演を待つ。金曜日の夜ということもあり、スーツのお客さんが目立つ。暖かい場内の空気と日中の疲れから、少しうとうとする中、開演時間を5分ほど過ぎてLIVEが始まる。

 

 

 赤い照明のもと、「いらいらいらい」のイントロを彷彿とさせる1コードのガレージロック的な山本タカシさんのギターリフが不穏に響き、そこに山本隆二さんのピアノが浮遊感のあるスケール外の異音を乗せる。てっきり、「いらいらいらい」が始まるものとして身構えていたため、「いつだって僕らは」と安藤裕子さんが1曲目から張りのある伸びやかな声で場内を満たしたとき、瞬時に理解が追い付かなかった。そう、くるりの「ワールズエンド・スーパーノヴァ」のカバーである。"今回のLIVEは初期の曲や、懐かしの曲をたくさんやろうと思います"(*1)とインタビューで答えられていたので、いきなりカバーかよ!!とツッコミそうになったが、「大人のまじめなカバーシリーズ」に収録されている2つのバージョンの「ワールズエンド・スーパーノヴァ」、そのどちらとも違う、また新たな解釈の素晴らしいカバーだった。2番のAメロでピアノが裏拍でコードを刻み、ビートを攪乱しつつ、訪れるサビ前の一瞬のブレイク。1000人ほどのこじんまりとした会場と、舞台に真摯に対峙するファンが生む完璧な静寂、そしてそこからの熱量の再放出。アウトロの安藤さんのフェイクが最高に気持ちよかった。繰り返される「どこまでも行ける」の歌詞に呼応する、空高く突き抜けていくような、荒野を走り抜けていくような力強さを持つ、絶妙なフェイク。一回だけ「いつまでも行ける」と歌ってしまい、安藤さんの顔がその直後ほころんだように見えたが、空耳と錯覚だろうか。

 

(*1)下を参照

www.hmv.co.jp

 

安藤裕子ライブ情報&本人コメント動画が到着! - YouTube

 

 

 続くのは、ヴァイオリンのCHICAさん、チェロの篠崎由紀さんによるストリングスが弓で弦をはじき(スピッカートというのだろうか)、その上にフランス風のピアノが加わり、 諧謔的なアコギのメロディが乗るという、パスカルコムラードやクリンペライを想起させる、壊れたおもちゃ箱みたいなアヴァンポップ調のイントロが面白い「み空」。2013年のアコースティックライブでの何かが憑依したような鬼気迫る「み空」も圧巻だったが、ティム・バートンのお遊戯会とでも評したくなるような軽快な今回のアレンジもまた素敵だった。「廻る」のリフレインを抜けたサビの広がりは、ストリングスが入ることでより爽快に感じられた。「傷は舐めて癒えるもの 膿んだふりなんて見せつけないでよ」のCメロ明けの間奏を経たサビは、途端にシンプルなピアノの伴奏のもとで幼く歌われ、涙を誘う。ラストの「美空など諦めて」を「美空など焼き捨てて」と珍しく歌詞間違いをしていたのが、少し面白かった。もし「Acoustic Andrew」が発売されるなら、ぜひ収録していただきたいアレンジだった。

 

 "お元気ですか?"という安藤さんの呼びかけに沈黙する観客席。ワンテンポ遅れて"元気です!"と応じる男性に"優しい人だね"なんて言いながら安藤さんのMCが始まる。"しばらくアイドルと妖怪(*2)を行ったり来たりしていたが、近頃妖怪に寄りすぎた""何かほっこりした曲をやりたい"ということで、SNSでファンにアンケートを取るも、コアなファンの選曲はそれぞれ独自色が強く、"もはや集計を取るに値しないほど割れに割れた"そうで、"どうセットリストを組むべきかよく分からないまま初日を迎えた"とのこと。"皆さんにとって懐かしい曲なのかは分かりませんが、聴いてください"と前置きして、歌われたのは「ドラマチックレコード」。ここで、ストリングスが一度抜ける。

 

(*2)「グッド・バイ」のツアーである「Live 2013 HELLO & goodbye」にて、「絵になるお話」を歌う姿を"アイドル"、「いらいらいらい」「獏砂漠」を"妖怪"と自ら評していた。

 

 

 LIVEで歌われるのは恐らく、「LIVE 2010 "JAPANESE POP"」ぶりじゃないだろうか。左記のツアーには参加できていないので、私個人としてはLIVEで聴くのは初めてで、何とも嬉しい選曲だった。 2009年に福岡のテレビ局の音楽番組「チャートバスターズR!」の企画でアコースティックスタジオライブが行われていたそうなのだが、そこでのバージョン(下に参考動画)に近かった。優しいアコギの伴奏はまるで麗らかな草原のように、まろやかなファルセットがそこに吹く柔らかい風のように、会場を温かい空気で満たしていく。ピアノもそっと添えるだけ、椎名林檎さんのサポートでもお馴染みの鳥越啓介さんによる深みのあるウッドベースの安定感がまた心地よく。ストリングスが加わることにより、散らかりそうになるアコースティック編成を、ベースが支えつつ、ぐっと引き締めていて、安藤さんも仰られていた通り、今回の編成が正解のような印象を受けた。

 

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 "この会場、こんなに暗かったっけ?""客席が全然見えない"というMCがまさか伏線になっているとは気づかないまま、「あなたと私にできる事」へ。アコースティックライブらしい、ミドルテンポの味わい深い曲が続く。静謐な音のうねりに身を委ねていると、じわじわと熱を帯びるアウトロの盛り上がりに鳥肌が立つ。ウッドベースを揺れながら奏でる鳥越さんが色っぽかった。暗い会場の中、山本タカシさんの丁寧に磨かれたギターのボディに照明が反射し、フラッシュのように瞬いていた。あまりの心地よさに夢見心地になっていたが、"まだ4曲目ですよ、私のα波ボイスで眠たくなっていませんか?"と安藤さんに見透かされていた。

 

 "夕べ寝ずに練習したんですが、自分と程遠い曲調なので歌詞もメロディも全然体に入らなくて……""なにせ音楽性に乏しいので"と自虐しつつ、クリスマス曲に関するMCが続く。"私、最初セットリストにクリスマスの曲を入れてなくて""そしたら、マネージャーが「ええっ」って困惑していて、そういえばSNSで大々的に募集していたな、と"という発言に安藤さんらしいと苦笑しつつ、"HPで宣伝していたものは仕方ないと入れてみたけれど、全然間に合わなかったので歌詞をガン見しながら歌おうと思います"という発言に笑いつつ。"リズム感に自信のある人?"という安藤さんからの呼びかけに、最前列の方が手を挙げるも、鈴を渡す際には"本当だろうな?"と煽る安藤さん。"ちょっとあんまりな感じなので、客席が暗い状況で歌える自信がない"というセリフに先程のMCの理由を合点して。客席が明るくなり、安藤さんが鉄琴を奏で、イントロが始まる……も、高音部で音が鳴らず。それも、御愛嬌。

 

 イントロだけだと何の曲かさっぱり分からなかったので、「I don't want a lot for Christmas」という歌いだしに驚く。なんと「All I Want for Christmas Is You(恋人たちのクリスマス」のカバーだった。謙遜されていたものの、やはり普通に上手くて歌手ってすごいと当たり前のことを改めて実感。ゴスペル歌手さながらのサビの張り上げが圧巻だった……が、安藤さんは自分がそういう一面を出しているのがおかしいのか時々吹き出しそうになっていた。2番から、山本隆二さんはピアノでなく、トイピアノらしきものを弾かれており(下に参考画像)、かわいらしい仕上がりに。宣言通り歌詞をガン見しながらの歌唱だったが、「All I want for Christmas is you」の歌詞の部分だけはきちんと正面を向いて歌われていた。余裕が出てきたのか途中から踊りもつけ、アイドル安藤裕子を存分に発揮。華やかなエンディングで曲も終わりかと思いきや、安藤さんの鉄琴ソロがアウトロでも入る模様。しかし、やはり高音部は出ず。めちゃくちゃハイレベルな宴会芸を見せられたような気分になった。安藤さんのLIVEは何故か見る側も緊張するのだが、アットホームな雰囲気に思わず笑みがこぼれ、張り詰めた空気が弛緩していった。

 

 

 

 "それ、また使うからちゃんと返してね"と渡した鈴を取り返しつつ、"熱い"と連呼する安藤さん。遠くからなのできちんと視認できたわけではないが、スカート部分がゴールドのサテン地、胸の部分は灰色に黒のT字のラインが入ったワンピースの上に、青いカーディガン、紫のタイツに青い靴という装い。"熱いけど、二の腕を見せたくないから(青いカーディガンを)絶対に脱がない"と仰られていたが、結局中盤で脱がれていた。"山場は越えたので、ここからはまた真剣に歌いたいと思います"というMCの後、ミドルテンポバラードの「唄い前夜」が続く。

 

 1曲目として歌われた、2013年のアコースティックライブのアレンジに近かった。寂寥感のあるアコギのイントロで始まり、2番からピアノとウッドベースが加わる。そのままのメロディとコードがいいために、限りなく音を排しても、むしろ曲の持つ良さが引き立つ。日頃耳にする積み重ねられた音楽もいいけれど、耳をそばだてれば一つひとつの楽器が奏でるメロディを追うことができるシンプルなアレンジと、そこに溶け込む安藤さんの歌声がただただ気持ちいい。山本隆二さんはフェデリコ・モンポウ、特に「ひそやかな音楽」(*3)がお好きだそうだが、その静謐さにはどこか近しいものを感じる。

 

(*3)モンポウに関しては、こちらのサイトが詳しい。

モンポウの世界 - Federico Mompou's world

 

 

 再びストリングスが加わり、「ニラカイナリィリヒ」へ。イントロの主旋律をストリングスが奏で、例えるならBjörkの「Joga」のようなクラシカルで深遠なアレンジに。エレキギターの唸りが深い森に響く動物の吠え声のようで、ピアノが繰り返す一定のコード進行は、生で聴くとヴォイシングの妙がより感じられた。2番からはBPMを速め、激しさを増すピアノとボーカルに焦燥感に駆られる。そのままの勢いを保ちながら、山本タカシさんのカウントを経て、安藤裕子最高速のシングル「パラレル」へ。

 

 ドラムレスというのに凄まじい熱量でもって押し寄せる音の塊に圧倒されながら、素朴なのに一つひとつの言葉が強い、究極のラブソングといっても過言ではない歌詞を堪能する。Cメロの「you know my guilt」の部分は青い照明の中、赤いランプが点灯し、CD音源より複雑に感じられるピアノの不協和音、荒れ狂うストリングスが不安を煽る。限りない緊張の後のブレイクに息を飲まされ、ラストの「君がすき」という最高音の絶唱が胸に響く。観客に拍手をする隙を与えないように、山本隆二さんが最後の一音を保ちながらそのまま次の曲へ。

 

 不穏なピアノ、何かに突き動かされるように同じ音を同じリズムで刻むベース、絶妙に不安定で浮遊感のある旋律を奏でるストリングス、ギターはシューゲイザーのように混沌に滲む。秋の大演奏会での「エルロイ」のアレンジを彷彿とさせる、怪しく、暴力的でありながらも、耽美なサウンドのもと、安藤さんが譫言のように英詞を口走る。新曲か、それともカバーか分からないまま曲が進み、苛立ちを放出させるように「Hello」という歌詞が繰り返され、ふと気づく。ニルヴァーナの「Smells Like Teen Spirit」だ。サビはまさに「叫び」だった。安藤さんの喉が心配になるほどの「叫び」。山本隆二さんのお好きなRobert Glasper Experimentがこの曲をカバーしているが、ジャジーなアレンジのそれとは別物だった。3ピースとは全く違ったベクトルのアレンジなのに、カート・コバーンがこの曲で表現している苛立ちがそのまま詰まっていた。「Hello」の部分の変遷するコード進行のリハモが素晴らしかった。あともう少しで壊れそうなのに、ギリギリのラインで踏みとどまっている危うさ。山本隆二さんのこの手の前衛的なアレンジは堪らなく好きだ「A denial」――「拒絶」を連呼し、楽曲が終わると、カバー曲にも関わらず観客席から声が上がった。安藤さん本人も仰られているが、このカバーが聴けるのが3公演だけというのがもったいない、名演だった。

 

 

 

 "どうしよう、何か喋ろうと思っていたのに、素に戻ってしまった"という独白する安藤さん。"生死を歌う曲が増え、曲に飲み込まれるのが怖くて、仮面の部分が強くなり、ついつい喋りすぎるようになった""ディレクターからは「それ、やめなさい」と注意されるんだけれど……""はよくMC中に素に戻って何を喋っていいか分からなくなっていた"という言葉に、昔の――といっても、3年前くらいなのだが――安藤さんのLIVEに思いを寄せる。近頃、急にMCが上手くなられ、観客をトークで笑わせることもしばしばあるが、数年前までは安藤さんのMCの出来なささと、ボソッと呟く言葉の面白さに笑いが起きていたことや、MCが途切れ途切れすぎて、ファンから「その服どこの?」「何食べた?」なんて声が上がっていたことなどを思い出した。安藤さんは"どうしよう"と不安そうな表情だったが、きっと私だけでなく、他のファンも皆「それでいいんだよ」「それがいいんだよ」と心の中で声を掛けていたはずだと思う。個人的には、久しぶりに安藤さんの素の部分、弱さが垣間見られてどこか安心した。"私は元気です"とMCの最後に脈絡なく、誰に言うでもなく呟かれていたのが印象的だった。

 

 徐々にアコースティックライブらしからぬ音の膨らみを見せる展開だったが、ここで少しクールダウン、ピアノだけのシンプルなアレンジのもと、透徹なファルセットが冴えわたる「忘れものの森」へ。中央公会堂は前述の通り久しぶりだが、本当にいい会場だと思う。古い酒造がその蔵だけの酵母を持つように、長い年月をかけて会場に沁みこんだ音の歴史の重みが、サウンドをより深く醸成しているような気がする。最後の音が消えてゆくとともに、照明に安藤さんの涙がきらりと光った。

 

 「夜と星の足跡 3つの提示」のイントロが始まった瞬間、本能的に「泣く」と察知し、途端に瞼の奥から熱いものが込みあげ、突然のことに自分でも戸惑った。いつの間にか涙が一筋頬を伝い、そこからは何が何だか分からないまま、溢れるように涙がこぼれた。LIVEで泣くのは初めてのことだった。中学1年生、安藤さんを聴き始めたばかりだった頃、冬の空、冷たい風の中、街灯もない田舎道に美しく煌めく夜空、塾の行き帰りの道に合い、よく聴いていた曲だった。中高の思い出が走馬灯のように駆け巡っていく。音楽の趣味は色々変わってきたが、安藤さんだけは指針のように常に聴いていた。数日前に大学に合格し、急いでチケットを取って、参加できた今回のLIVE。ご都合主義じみているが、安藤さんからの餞別のように感じた。アウトロの歌詞カードにない部分はかなり音が高いが、CD音源の繊細なファルセットとは違う、がなるような、声が割れた歌い方をされていて、そのハスキーな叫びに心を打たれた。安藤さんとの出会いの曲ではないけれど、この曲は確かに安藤さんとの思い出の曲だった。本当に、来て良かった。ありがとう。

 

 "曲が作れなくなっていた"という発言にはとても驚いた。以前何かのインタビューで"音楽は生活の中で勝手に出てくるものだから、スランプはない"と仰られていたし、ここ最近にそんな素振りは感じられなかったからだ。"ディレクターのアンディ(安藤雄二さん)が「作れないなら、もらえばいいんじゃない」と言ってくれた""3月に「頂き物」というアルバムを出すが、これは私に曲をくれたこれは10人の優しい人たちと、支えてくれる周りのスタッフのお陰でできたアルバム"。

 

 "親しくない人とは付き合わず、親しい人にはわがままな性格で、友だちというものがあまりいません""でも、10周年を境に、少しずつ音楽業界の友だちも増えてきた""そんな中で昨年は特にイベントに呼ばれることが多くて、年末のTKくんとの対バンに向けて「今年は出会いの年だった」という話をしたら、TKくんが「じゃあこれが今年最後の出会いですね」と言って「Last Eye」というタイトルがついた曲をくれた""宇宙のイメージの曲です"というMCを受けて、ちょうどLIVEの前日に先行配信されたばかりの新曲「Last Eye」へ。

 

 映画音楽のような、ドラマチックさを持つ楽曲。音源とほぼ同じと思われる今回の編成にサウンドがよく映えていた。「そして僕がいつも淹れたげるコーヒーには 口をつけない君 世界が冷えてく」というどこかTKさんっぽさを感じる2番のAメロの歌詞が好きだ。会場の外で吹き荒れているであろう冷たい冬の風のような高音のファルセットと、熱いチェストボイスの混じり合いが美しかった。サビ前のピアノリフに初めてメロディが乗り、徐々に強さを増すピアノソロの後の「まだ見えないよ」のサビ、壮大なストリングスには鳥肌が立つ。盛り上がりを終え、またピアノだけのアウトロが奏でられ、まるで遠い宇宙に行って帰って来たような心持ちになった。

 

 続く「The Still Steel Down」は打って変わって深い森にいるような照明に。届かない恋心が歌われる切ない歌詞に、次々とメロディが変遷していく独特の構成、力強いサビ。究極的に安藤裕子らしい曲だと思う。「ねえ溢れ出す想いを木の葉に刻んでも 雪がいつかそれを隠してくれるのなら」という詞が今の季節によく合っていた。昨年末のプレミアムライブでも演奏された曲だが、何度聴いても嬉しい名曲だ。

 

 "3公演しかないので、LIVEを育てていくのは難しい""でも、色んな感情をもらえた舞台でした。本当にありがとうございました"というMCを挟み、「走り出し 落ちかけた夕陽を追う」という歌詞に合わせたのだろうか、夕暮れのような赤い照明の中、感傷をそそるイントロから「歩く」へ。ヴァイオリンとチェロしかない、小編成のストリングスだからこそ、二声の弦の美しい絡み合いをじっくり味わうことができた。目を閉じて、サビの昂ぶり、何かを確かめるように繰り返されるラストの「夜は走り去る」を聴く。長く続いた夜は終わった。曲が終わり、目を開けると、そこには水色の中に眩い光が滲む、朝焼けのような照明があった。

 

 ラストはやはり「聖者の行進」。歩くの後に、行進。生きていくには歩き続けなければならない、ということか。安藤さん本人も覚えていらっしゃるか分からないが、かつて昔のインタビューを色々と探している中で、「Middle Tempo Magic」の頃のあるインタビューを見つけ、そこで「聖者の行進」の歌詞の由来を語られていた。"夜遅くにTVを観ていると、NHKのドキュメンタリーで、中学生特集がやっていた""私たちが子どもの頃は将来の夢は自由だったが、今の子どもは堅実な職業を選ぶようになったらしい""夢は決して叶うとは限らないものだけれど、幼い頃に見た夢が大人になってから支えになったりする""子どもたちに自由に自分の夢を持ってほしいと思って書いた曲です"というようなことを――多少脳内で脚色しているかも知れないが――仰られていた。ラストの歌詞カードにはない「身を焦がされても失くさないで 夢見てくれたらいいの」という歌詞に安藤さんのその想いを感じることができた。祈りのような出だしから咆哮のようなラストの歌声、静から動へ行進していくバンドの演奏でもって、力強く本編が終わった。

 

 アンコールに、安藤さんに加え、山本隆二さんと山本タカシさん、それから鳥越さんが出てくるも、山本タカシさんが鳥越さんに耳打ちし、鳥越さんは舞台袖にはけていった。"いつもの3人で演奏しようとしていたら、今回初顔合わせの鳥ギョエさんが(噛んでいた)出てきたので、タカシくんが眼力で追い返しました"と安藤さんが笑いを取る。アコースティックライブでお馴染みの、しかしこの前のアコースティックライブでのギターは設楽博臣さんだったため、少し久しぶりのW山本コンビのもとで歌われたのは「六月十三日、強い雨。」。アコースティックライブを始めるきっかけとなった長崎という地に感化されるように書かれた、アコースティックライブの初心を思い出すこの曲。ストリングスやウッドベースが入る華やかな編成もいいけれど、帰るべき場所はこことでもいうような、長い旅から帰って来たみたいな安心感があった。

 

 "私はいつもここで物を売る人にならないといけないんですが、この会場は退館時間が厳しいので、手短にいきます"と、いつもの物販をスピーディーに済ませた後、最後のMCへ。"今年は色々と考える年でした""みんな、生きろ――ってもののけ姫みたいになりましたけど""どうかお元気で、生きてください。またお会いしましょう"という別れの言葉に続くのは、IIm9の不安定なイントロ。松任谷由実さんの「A HAPPY NEW YEAR」だった。もちろん聴いたことのある曲だったが、今回安藤さんのボーカルでしっかり聴いてみて、そのセンスに脱帽した。なかなか主和音が登場しない、揺蕩うようなコード進行のもと、VII♭7を効果的に用いながら、メロディがきちんと展開していく様は、年末のあの何とも言えない高揚感と年の瀬の寂しさを体現するかのよう。原曲に忠実なアレンジだったが、確かにこの曲はアレンジする余地がない名曲だなあと実感した。クリスマスから、年末へ。そしてまた、新しい1年を迎えよう。

 

 「問うてる」はすっかりエンドロールの貫禄がある。2番前の間奏の山本タカシさんのアコギのソロがカッコよすぎて、痺れた。ジャジーで軽快なアレンジ、しかし歌われるのはあくまでも生きることの諦念、そこが安藤裕子らしい。「平凡に生きる毎日だけじゃなくて 悲しみさえ求めて」私たちは生きていく。ラストの「ラーラーラー」で、シャイなファンの皆さんと心の奥底で繋がったような感覚を受けながら、懐かしの曲から王道曲まで満遍なく楽しむ中で色々な感情を得ることができた最高のLIVEが終わった。

 

 また来年も、安藤さんのLIVEをたくさん見られますように。

 

 


「セットリスト」

 

 

01.ワールズエンド・スーパーノヴァ(「くるり」カバー)
02.み空
03.ドラマチックレコード
04.あなたと私にできる事
05.All I Want for Christmas Is You(「Mariah Carey」カバー)
06.唄い前夜
07.ニラカイナリィリヒ
08.パラレル
09.Smells Like Teen Spirit(「Nirvana」カバー)
10.忘れものの森
11.夜と星の足跡 3つの提示
12.Last Eye
13.The Still Steel Down
14.歩く
15.聖者の行進

 

 

(アンコール)
16.六月十三日、強い雨。
17.A HAPPY NEW YEAR(「松任谷由実」カバー)
18.問うてる

 

 

 

Vocal, Glockenspiel:安藤裕子

Electric & Acoustic Guitar:山本タカシ

Wood Bass:鳥越啓介

Violin:CHICA

Cello:篠崎由紀

Piano, Toy piano, Bandmaster:山本隆二

安藤裕子 × スキマスイッチ 「360°サラウンド」 レビュー | 歌詞 & コード解説

 ※前置きが長くなってしまったので、歌詞に興味のある方はスクロールしていただければありがたいです。

 

 安藤裕子スキマスイッチのコラボシングルが出る。

 

  そんなニュースを聞いたのが、4月の末。安藤裕子さんの大ファンで、スキマスイッチ(敬称略)も大好きな私からすると、これ以上ない最高のコラボ。思えば安藤裕子さんとスキマスイッチが昨年末5回にわたり対談したFM802の「徒然ダイアローグ」内で「また、コラボができたらいいね」なんて話していたけれど、まさかこんなに早くその夢が実現するとは思いませんでした。

 

 スキマスイッチを初めて認識したのは――恐らく大多数の人がそうでしょうが御多分に洩れず――「全力少年」だったと思います。発売されたのが2005年なので、もう10年前。安藤裕子さんを本格的に聴き出したのが5年前。彼女の出世作「のうぜんかつら」が使用されている永作博美出演のあの名作CMを目にしたり、レイザーラモンHGに絡まれていたMステ出演を何となく覚えている(気がする)ものの、安藤さんよりスキマスイッチの方が付き合ってきた期間は長い。なんだか不思議です。

 

 前述の「徒然ダイアローグ」で「ゲノム」や「パラボラヴァ」などを聴き、興味が出て買ったセルフタイトルアルバム「スキマスイッチ」の他、「奏」「ガラナ」「ボクノート」「ユリーカ」など挙げればキリがない数々の代表曲やタイアップ曲を耳にしてはいるものの、堂々と「ファン」と呼べるほど曲は知りません。しかし、J-POPのメインストリームに長年君臨しながらも良質な楽曲群を発表し続けるスキマスイッチの堅実な活動姿勢に尊敬の念を抱いていることは確かです。

 

 スキマスイッチの魅力は幾つもあると思いますが、そのひとつが「歌詞」であることは間違いありません。ファンだからこそ言えますが、安藤裕子さんの歌詞は分かりにくい気がします。大体の意味は掴めるものの、多数の比喩が散りばめられた抽象的な詞が多く、ひとつひとつの言葉を理解するのは難しい(「夜と星の足跡 3つの提示」「グッド・バイ」など)。ただ、ひとつひとつの言葉が分からないが故に、もっと奥深いところで理解できるような気がするのも確かですし、その歌詞がメロディと合わさって、安藤さんの声を伴って歌となり、こちらに向けられた瞬間、とてつもない感動を呼ぶことが彼女の「詞が好き」というファンが多い所以でしょう。

 

 対するスキマスイッチの歌詞は「分かりやすい」と思います。「分かりやすい」というのは「簡単」だとか「単純」といったことではなくて、より「普遍的」という意味で。日常における小さなエピソードを、美しい日本語の組み合わせで、より広い意味合いに敷衍してゆく――そういう歌詞の組み立て方をするアーティストとして「スキマスイッチの右に出るものはいない」とまで、ライトリスナーですが、思います。あと、言葉とかストーリーに押しつけがましさがなくて、素直に耳に沁み込んでくる。メロディに対する言葉のハマり方が絶妙っていうこともあるんでしょうが、何より説教臭さがない。懐が広くて、ニュートラルな印象を受けます。メロディやアレンジに関しても同じように思います。その辺りが、音楽に対するこだわりの強さはとてつもないものの、スキマスイッチが広く長く大衆に受け入れられている理由なんじゃないでしょうか。

 

 実は安藤裕子さん、ご自身が作詞されていない楽曲を本人名義で出されるのは初めてです(東京スカパラダイスオーケストラ沖祐市さんの「Gospel」というアルバムでゲストボーカルとして歌われた「真夜中の列車のように」は同じく東京スカパラダイスオーケストラ谷中敦さん作詞ですが、本人名義ではないので)。「アルバムの風通しをよくするために」1枚のアルバムにつき1曲は外注曲(末光篤さん a.k.a. SUEMITSU & THE SUEMITH、宮川弾さん、GREAT 3の白根賢一さんなど)があるものの、ゲストボーカルとして参加されている楽曲に至るまで、前述の「真夜中の列車のように」以外は全て本人作詞です。その、初の他人が書いた詞がスキマスイッチで本当に良かった、と安藤さんファンとして思います。

 

 そんなこんなで前置きが長くなりましたが、安藤裕子さんとスキマスイッチのコラボシングルである「360°サラウンド」の歌詞がこちらです。一部、聞き取れなかった部分があるので、コメント欄などで教えていただければ嬉しいです。

通りすがりの方に教えていただきました!それに伴い、一部加筆修正させていただきました。

 

 

舞い踊る水しぶきが午後の気温 あげてく

ほら 指さす方 青空

夏の朝の空気のように ワクワクする気持ちのまま

君と二人 創造していけたらいいなぁ!

 

打ち付けている 今年初めての夕立

360°(ぜんほうい)のサラウンド 街中を包む

この音が止んだら 始まる僕たちの夏

雨宿り 並んで 見上げて 待ってる

 

手をつなぐたび 君とのcm(センチ)を測っていたい

不安定な空みたいに 行ったり来たりもするけど

 

舞い踊る水しぶきが午後の気温 あげてく

ほら 指さす方 青空

夏の朝の空気のように ワクワクする気持ちのまま

君と二人 創造していけたらいいなぁ!

 

僕らが抱える シアワセに潜んだ少しの不安

でも雨がないと 生きられない それこそリアリティ

 

日常の中の幸福度を検知できたなら

2人でいること 巻き起こる全てが愛しい

 

雨上がり 街路樹が 爆発したように夏をまとう

ほら 子どもたち 駆けてく

3、2、1で歌い出す 蝉たちのこの季節のアンセム

響いていけ 濡れてたTシャツが乾いてく

 

ヒリヒリと痛いくらい 今年も焼き付けてくよ

 

雨上がり 街路樹が 爆発したように夏をまとう

ほら 太陽が急かしてる

 

照らされたアスファルトが最高気温 あげてく

ほら そびえ立つ入道雲

いまさらギュッと掴んでいなくたって

消えたりしないと油断していたら

君が手を ほどいてちょっと前を歩いて

 

僕を見透かして 笑ってる

 

 

 (安藤裕子「360°サラウンド」より引用 ©スキマスイッチ

 

 

 そしてこちらがその楽曲。日本初の技術を使った(と「めざましテレビ」で言っていました)MVが面白いです。AndroidiPhoneの「YouTube」アプリ、PCだとChrome ブラウザなどで、このパノラマの新技術が楽しめるそうです。Björkがニューアルバムの「Stonemilker」という曲でこの技術を使っていたのを見て「ほー やっぱりビョークはすげえ」なんて思っていたのですが、まさか安藤さんのMVで使用されるとは思いませんでした。タイトルにぴったりの技術で、まさにナイスタイミング!

 

 


安藤裕子 / 「360°(ぜんほうい)サラウンド」 ‐MV‐ - YouTube

 

 

 先日、この曲がFM802で先行公開されたとき、安藤さんとスキマスイッチのコメントが流れていました。その中で安藤さんが「うわー 坂道から美少女 自転車で漕ぎ降りてきて 浜辺でザザーンってやって なんか飲んだー」みたいなイメージだと仰られていて笑いましたが、まさにその通りの「スプラッシュ感」溢れる楽曲、そしてそれに相応しいどこを切り取っても夏らしい歌詞。そういえば、そのコメント内に

 

常「この曲を聴いて安藤裕子さんってこんな明るいんだって誤解してもらえたら」
安「どんだけ暗いイメージなんですか私(笑)」
大「スプラッシュ感」
安「でも私やっぱりジメッとしたイメージありますからね」

 

 なんて面白い会話もありました(笑)。

 

 流麗なストリングスセクションだけをバックに、サビから始まるこの曲。「夏の朝の空気のように ワクワクする気持ち」って部分が好きです。夏の朝、清々しい風と照り付ける日差しに、これから始まる1日への期待を否が応でも膨らまさせられる、あの独特な空気。そんな気持ちのように「君と二人」で、これからの未来を創造してゆけたらいいな。「想像」じゃなくて「創造」ですよ!夢がビッグです。

 

 楽曲の始まりとこの曲の「二人」の夏の始まりを盛り立てるように、徐々に楽器が増え、バンドサウンドが厚く、熱くなってゆくAメロ。「360°サラウンド」って夕立の音のことか!と合点。絶妙に入ってくるコーラスがまた、曲をより爽やかに。夕立の中、主人公の男の子と「君」が並んで雨宿りをしている情景の叙述説明がなされます。スキマスイッチの夏ソングといえば「切ない」歌詞の「アイスクリームシンドローム」が思い浮かびますが、こちらは「甘酸っぱい」。だって「始まる 僕たちの夏」ですからね。友情って名前のシンドロームから踏み出せないでいる彼に聞かせてあげたいです(笑)。

 

 マーチングのような急き立てるドラムが印象的なBメロ。「不安定な」という歌詞と合わせたわけではないでしょうが、ここのコード進行が絶妙に「不安定」なのですが、その話は後ほどのコード解説で。サビへの期待を煽る、いい橋渡しのBメロです。

 

 サビはなんといっても飛躍の激しい流れるようなメロディ!なんとこの曲、使用されているメロディは2オクターブちょっとあるんです。「ド」から次の「ド」までが1オクターブです。それが2つ分プラスちょっと。カラオケだとなかなか歌いづらいんじゃないかなあと思います。さすが大橋さん。でも、サビのメロディ展開がドラマチックなのは安藤さんの楽曲もそうです(「Paxmaveiti」「青い空」など)。そんな難しい曲をもたつくことなく難なく歌える、安藤さんのボーカリストとしての能力を改めて感じさせられました。歌詞は冒頭と同じ。四つ打ちリズムのドラムに「売れそう」って思ってしまいました。最近の邦ロックの常套手段(KANA-BOONの「ないものねだり」など)らしいですし。

 

 MVでも雨雲が出てきていましたが、2番のAメロは少し不穏な影が。少しの不安=雨がないと生きられない。植物はもちろん、人間だって「日差し」だけで成り立っているわけじゃないですよね。「雨」がないと。「少しの不安」があって初めて「シアワセ」が引き立つ。まさにそれこそリアリティですね。

 

 Bメロは1番とドラムのリズムが変わり、飽きさせません。「幸福度」ってオリジナルの言葉が面白いです。二人でいるということだけで、巻き起こる全てが、日々の小さなシアワセのひとつひとつが愛おしい。甘い!!(笑)

 

 そして、2番サビ前の一瞬ブレイクを挟んでの佐野康夫さん(じゃないかなと思っているのですが、別の方かも知れないです)のフィルインaikoの「あの子の夢」のイントロを彷彿とさせる(佐野康夫さんのドラムです)、初聴時にあっけにとられる、「入りをミスったんじゃないか」と一瞬訝ってしまう、でも最高に気持ちがいい絶妙なもたつき感。こういう一筋縄ではいかないちょっとした工夫が、最後まで飽きさせずに楽曲を聴かせてくれます。さすがの山本隆二さんのアレンジです(山本さんは安藤裕子さんのデビュー時から今までのほとんどの曲のアレンジ、LIVEでのバンドマスターを務められています。スキマスイッチでもLIVEのサポートをされているそうです)。

 

 「雨上がり 街路樹が 爆発したように夏をまとう」。この表現、すごいなあ。木の葉に溢れる水滴が光を乱反射させて、夏の熱気をもその葉のひとつひとつにまとう、あの雨上がりの瞬間が詩的に沁み込んできます。「アンセム」が聞き取れたのは我ながらよく聞き取れたと(笑)。蝉の鳴き声が夏のアンセムだなんて、素敵です。

 

 重厚なストリングスに軽やかなグロッケン。次々と変遷していくコードが面白い間奏を経て、一瞬のブレイク。安藤さんの「ドラマチックレコード」のラストサビ前のブレイクをふと思い出しました。思わずハッとさせられます。

 

 いよいよクライマックス。「色づく」の部分で、「おっ?」と思ってしまいました。「づ」が少し噛んでいる気がして。しかし、ここ、安藤さん及び安藤裕子チームの音楽にかける情熱が感じられる部分だと思います。安藤さんの楽曲って全て一発録りなんですよね。楽曲には、ドラマーだけとってみても、矢部浩志さんに沼澤尚さんに、佐野康夫さん、伊藤大地さんなどの名うてのスタジオミュージシャンが参加されおり、エンジニアは渡邊省二郎さんです。世界的なマスタリング・エンジニアTed Jensen氏からの評価も高い渡邊省二郎さん。そういえばスキマスイッチのアルバム「スキマスイッチ」のエンジニアも渡邊さんでした。業界最高峰の技術に裏打ちされた、スキマスイッチに勝るとも劣らない安藤裕子チーム(通称、ディレクターの安藤雄二さんの苗字をもじり「チームアンディ」と呼ばれています)の音楽制作にかけるこだわりが伝わる、一発録り。いくつものテイクから良い部分を継ぎ接ぎしてまとめる手法は今や普通ですが、そういう安易な音楽制作はしない。ここだけ録り換えれば、違和感はなかったのでしょうが、そんな野暮なことはしない姿勢が好きです。

ここ、そもそも歌詞を聞き間違えていたので安藤さんは噛んでいませんでした……。申し訳ないですし恥ずかしいですし、消したい部分ですが、ここを消すと一発録りと渡邉さんの件が無くなってしまうので、自分への戒めも込めて、残しておきます。

 

 キーを1つあげたラストのサビは畳みかけるような最後の歌詞が堪りません。男の子と女の子の関係性がよく伝わって、なんだか甘酸っぱいです。「君が手を」の「手」の部分、1番と2番にも同じ部分がありますが、なんと!!最後だけ半音下がっているんです!!ブルーノートと呼ばれるものなんですが、スキマスイッチの楽曲にはよく登場します。aikoの曲を想像してもらえば分かりやすいと思いますが、少しソウルフルな印象を受けると思います。ラストだけ変えてくるなんて、ニクい!

 

 上のYouTubeにアップロードされたMVではカットされているようですが、1分ちょっとあるアウトロはアレンジの妙で、最後まで高揚感を煽ってきます。エレピ(フェンダー ローズかな?)の入り方がもっさんらしい。グロッケンなんかもラストでまた彩りを添えてきて。本当に息つく暇のない程、盛りだくさんな曲でした。スキマスイッチの詞と曲、山本隆二さんのアレンジ、安藤さんのボーカル。3者のとてつもない化学変化が味わえる、名コラボでした。

 

 

 ……と、長々と書いてきましたが個人的にはここからが本題です。記事タイトルにもありますが、コード解説です。今まで詞について書いてきましたが、この曲、音楽的にもすごい。スキマスイッチの楽曲はコード進行が難しいことで有名ですが、昨年の音霊での対バンで安藤さんが「全力少年」を歌われたあと、大橋さんが「僕らの曲のコードって難しいんですが、それが更に複雑にされていて、今あれを弾けって言われても僕ら再現できないですよ」と仰られていたことからも分かるように、チームアンディの音楽的頭脳・山本隆二さんのおつけになるコード進行は更に難解です。「この音が来たなら、このコードが必ず来る」みたいな部分もたくさんあるので、スキマスイッチ(多分、鍵盤の常田さんがメインなのでは?と推測しています)のお2人がおつけになられたコードを元にして、山本さんがリハーモナイズされたのではと思っています。「自分の曲だとそんなに時間がかからないプリプロが今回は難航した。キーを変えてみたり、構造を変えてみたりしてやっと形になった」と安藤さんも仰っていたので、スキマスイッチのデモからも、かなり変更があったよう。そんなコードがこちら。

 

 全てを理解できる方は少ないとは思いますが、スキマスイッチと安藤さんの音楽の複雑さを少しでも体感していただければ幸いです。

 

 

 

 

 

(*1) | | は1小節を表しています。

(*2) / は左側がコード、右側がベース音を表しています。

(*3) ( ) 内はテンションを表しています。

(*4) 便宜上、1番と2番の繋ぎ目や間奏を[ Bridge ]と表記しています。

 

[ C (サビ) ] (Key=D♭)


| D♭ | A♭m / B | G♭M7(9) | G♭mM7 |

| Fm7(11) | D♭m /E | E♭m7(11) Fm7(♭11) | G♭m7 A♭ |

| D♭ | A♭m / B | G♭M7(9) | F7(♭13) Adim7 |

| B♭m7 | E♭7(9) | E♭m7 Fm7 | G♭M7 A♭7 |

 

[ Bridge 1 ]

 

| D♭ | A♭m / B | AM7 | A♭ |

| E F# |

 

[ A ](Key=B) 

 

| B  Em / B | B  F# / A# | G#m7  B / F# | C# / F |

| E F# | Gdim G#m7 | C#m7 F# | G#m |

 

| B  Em / B | B  F# / A# | G#m7  B / F# | C# / F |

| E F# | Gdim G#m7 | C#m7 F# | B |

 

[ B ]

 

| EM7(9) | B / D# | C#m7(11) D#7(♭11) | G#m F#m7 |

| Fm7-5 B♭7 | D#m7 Bm / D | C#m7 | D#m7(11) / G#  G# |

| F# / G#  G# |

 

[ C (サビ) ] (Key=D♭)

 

| D♭ | A♭m / B | G♭M7(9) | G♭mM7 |

| Fm7(11) | D♭m /E | E♭m7(11) Fm7(♭11) | G♭m7 A♭ |

| D♭ | A♭m / B | G♭M7(9) | F7(♭13) Adim7 |

| B♭m7 | E♭7(9) | E♭m7 Fm7 | G♭M7 A♭7 |

 

[ Bridge 2 ]

 

| D♭ | E F# |

 

[ A ](Key=B)

 

| B  Em / B | B  F# / A# | G#m7  B / F# | C# / F |

| E F# | Gdim G#m7 | C#m7 F# | B |

 

[ B ]

 

| EM7(9) | B / D# | C#m7(11) D#7(♭11) | G#m F#m7 |
| Fm7-5 B♭7 | D#m7 Bm / D | C#m7 | D#m7(11) / G# G# |

| N.C. |

 

[ C (サビ) ] (Key=D♭)

 

| D♭ | A♭m / B | G♭M7(9) | G♭mM7 |

| Fm7(11) | D♭m /E | E♭m7(11) Fm7(♭11) | G♭m7 A♭ |

| D♭ | A♭m / B | G♭M7(9) | F7(♭13) Adim7 |

| B♭m7 | E♭7(9) | E♭m7 Fm7 | G♭M7 A♭7 |

| D♭ (2 / 4) |

 

[ Bridge 3 (間奏) ] (Key=E)

 

| E | F# | AM7(9) G#7 | C#m7 E7 |

| AM7 | A#dim7 | G#m7-5 | C#7 |

| DM7(9) | DM7(9) | C#sus4 C#M7 | F#sus4 F# |

 

[ B ] (Key=B)

 

| Fm7-5 B♭7 | D#m7 Bm / D | C#m7 | D#m7(11) / G# G# |

| N.C. |

 

[ C (サビ) ] (Key=D♭)

 

| D♭ | A♭m / B | G♭M7(9) | G♭mM7 |

| Fm7(11) | D♭m /E | E♭m7(11) Fm7(♭11) | G♭M7 A |

 

(Key=D)

 

| D | Am / C | GM7(9) | GmM7 |

| F#m7(11) | Dm / F | Em7(11) F#m7(♭11) | Gm7 A |

| D | Am / C | GM7(9) | F#7(♭13) A#dim7 |

| Bm7 | E7(♭9) | Em7 F#m7 | GM7 A7 |

| D A / C# | CM7 B7 | Em7 F#m7 | GM7 |

 

[ Outro ]

 

| D | Am / C | GM7(9) | GmM7 |

| F#m7(11) | Dm / F | Em7(11) F#m7(♭11) | Gm7 A |

| D | Am / C | GM7(9) | F#7(♭13) A#dim7 |

| Bm7 | E7(9) | Em7 F#m7 | GM7 A7 |

 

| B♭M7  Gm /B♭  B♭M7 | B♭M7  Gm / B♭  B♭M7 |

| Am / C  C  Am / C | Am / C  C7 C |

| B♭M7  Gm /B♭  B♭M7 | B♭M7  Gm / B♭  B♭M7 |

| Am / C  C  Am / C | Am / C  C7 C |

| B♭M7  Gm /B♭  B♭M7 | B♭M7  Gm / B♭  B♭M7 |

| Am / C  C  Am / C | Am / C  C7 C |

| B♭M7  Gm /B♭  B♭M7 | B♭M7  Gm / B♭  B♭M7 |

| Am / C  C  Am / C | Am / C  C  Am / C |

| D |

 

 

 ……いかがでしょうか?ゴチャゴチャしていて見づらいところからも、この曲の複雑さを理解していただけると思います。かなり丁寧に表記しましたが、基本的にテンションはメロディがコードに対してテンションになっている部分なので、プレイされる際には省いてもらって大丈夫です。「セブンスコードが多くて弾けない……」という場合は、セブンスは省いてもらっても雰囲気は味わえると思います。ラストは普通に「B♭M7→C→D」と表記すれば分かりやすかったと思いますが、原曲のピアノの忠実な感じで表記しました。あと、あくまで耳コピですので、実際のコード進行と異なる部分があるかも知れません。悪しからずご了承ください。

 

 それでは、コード解説にいきます(ようやく)。使用されている音楽理論の名称は分からないけれど、興味があるという方は下記のサイトが非常に見やすく、分かりやすく、面白くまとまっていますので参照ください。

 

soniqa.net

 

 

(Key=D♭)

 

| D♭ | A♭m / B | G♭M7(9) | G♭mM7 |

| I | Vm / VII♭ | IV | IVm |  

 

| Fm7(11) | D♭m /E | E♭m7(11) Fm7(♭11) | G♭m7 A♭ |

| IIIm | Im / III♭ | IIm IIIm | IVm V |

 

| D♭ | A♭m / B | G♭M7(9) | F7(♭13) Adim7 |

| I | Vm / VII♭ | IV | III V#dim |

 

| B♭m7 | E♭7(9) | E♭m7 Fm7 | G♭M7 A♭7 |

| VIm | II | IIm IIIm | IV V |

 

 

 曲の順番に沿って、いきなりですがこの曲の肝、サビのコード解説。この曲、キーがあと1つ下か1つ上だったら取りやすかったんですが(ハ長調が含まれるので)、#が5つのロ長調(特にピアノ曲以外のクラシックだとめったに見ないです(*1))と♭が5つの変ニ長調なので、シャープやらフラットやらがいっぱいなんですよね。そのため、コードの下にディグリーネームでの表記もしておきました。赤字は特に注意すべきコード。

 

(*1)ヴァイオリンでは音階に開放弦の音が一つしか含まれず主要三和音では倍音の響きが極めて乏しい。(WIkipediaより)

 

 まず注目すべきはいきなり登場するA♭m / B。なぜ、こんな突飛なコードがいきなり来ているのかといいますと、いきなりノンダイアトニック・トーン、つまり非正規の音が使用されているんです(「まいおどる みずしぶき」の赤字になっているところがそうです)。ディグリーネームで表記すればVII♭なのですが、簡単にいうと「ドレミファソラシ」が正規の音なのに「シ♭」が使用されているんです、それもいきなり。A♭mはドミナントマイナーなのでノンダイアトニックコード――この場合はその中でもモーダルインターチェンジ、同主短調からの借用となっています。「I→V / VII」という展開はありふれていますが、「I→Vm / VII♭」となると格段に珍しくなります。安藤裕子さんだと「愛の季節」のサビの入りが同じ進行です。ノンダイアトニックコードには個人的に浮遊感を感じます。そして、「ずしぶ」とノンダイアトニック・トーンが使用されたあと、次の「」でいきなり1オクターブ近い飛躍があるので、なんともいえない浮遊感、そして爽快感が感じられると思います。

 

 続く「G♭M7→G♭mM7」というサブドミナントからサブドミナントマイナーの進行。基本的に構成音は同じなんですが、マイナーになることで「シ♭」が「ラ」に半音下がって、なんとも渋みのある響きになっていると思います。安藤裕子さんだと「ようこそここへ」のサビの入りが同じ進行です。

 

 そしてDm♭ / E。歌詞だと「ほら」の部分です。ここ、いきなり体ごと落っこちてゆくような重力を感じませんか?ベース音が「ファ」から、これまたノンダイアトニックトーンの「ミ」に半音下がっているんです。ここは多分、スキマスイッチではなく山本隆二さんによるものだと思います。おそらくこの曲では上記のように鳴っていると思いますが、III♭7やIII♭M7でも代用可能です。安藤さんだと「シャボンボウル」の「どんどん流れて お空」の「」の部分、坂本真綾さんの「SAVED.」でもサビ終わりの「私に光を与えてくれたか」で効果的に使用されています。山本さんアレンジの醍醐味です。

 

 G♭m7もまた、飽きさせない工夫ですね。「IIm→IIIm→IV→V」の同じ進行になっている部分、2回目はG♭M7なんです。本来は左記のコードを使用するのが普通なのですが、同じ繰り返しじゃあ面白くないということで1回目にモーダルインターチェンジであるG♭m7が使用されています。

 

 F7→Adim7はセカンダリードミナント。いくつかあるセカンダリードミナントの中でもIII7は断トツに使用頻度が高いので覚えておきましょう。平行調である変ロ調からの借用なので、物悲しさを感じると思います。間にディミニッシュを挟んで、ベース音をじわじわあげることで、より物悲しさがぐんぐん迫って来ていると思います。III7はVImに進む働きがあるので(上に書きましたが、変ロ(=B♭)短調のドミナントなので、主和音である)B♭mに解決。続くE♭7もB♭からすると、四度上への強進行となり実に自然な流れです。

 

 

(Key=D♭)

 

| D♭ | A♭m / B | AM7 | A♭ |

| I | Vm / VII♭ | VI♭ | V |

 

(Key=B)

 

| E F# |

| IV | V |

 

 

 冒頭のサビからAメロへと移行する部分のコード。ここは特に言うこともないですが、強いて言えばAM7ですかね。これもモーダルインターチェンジ。さっきからモーダルインターチェンジは何度か出てきましたが、日本語は同主短調変換と言います。同主短調(例えばハ長調だとハ短調)のコードを借りる技法です。スキマスイッチだと「SF」の前半部分のピアノリフがモーダルインターチェンジをうまく使用した浮遊感のあるコード進行です。セブンスが入り、ピアノで弾けばちょっとお洒落な響きに、三和音でギターで弾けばロックな味わいになります。後半のE→F#はもう既にロ長調です。ロ長調サブドミナントドミナントです。

 

 

(Key=B)

 

| B  Em / B | B  F# / A# | G#m7  B / F# | C# / F |

| I  VIm / I | I  V / VII | VIm  I / V | II / IV# |

 

| E F# | Gdim G#m7 | C#m7 F# | G#m |

| IV V | V#dim VIm | IIm V | VIm |

 

 

 いやあ、実によくできたAメロです。シンプルで、無駄がない。まず、特筆すべきはいきなり登場するEm、サブトミナントマイナー。ここは、多分山本さんの手によるものだと。メロディに対するコードの当て方が絶妙で、なんだかクラシカルな響きを感じませんか?

 

 そのままベース音が滑らかに下がってゆき、C#へ。このコードもセカンダリードミナントです。ドミナントであるVに向かうセカンダリードミナントなので、このコードだけ特別にダブルドミナントとも呼ばれています。もちろん、ノンダイアトニックコードなので「F」という本来のスケールにはない音が含まれているのですが、それをメロディに絡ませています。さすがスキマスイッチ

 

 後半部分は、III7(先程も紹介しました、「物悲しい」コードです)の亜種であるV#dimを混ぜつつ、今度は上昇クリシェ。ベース音に綺麗に上がっています。最後はツーファイブを経て穏やかにトニックへとシメ……かと思いきや、偽終止G#m。偽終止というのは、ハ長調でいえば「ドミ」で終わるはずのところを「ドミ」とマイナーコードでシメることを意味します。マイナーコードになるので、少し陰を残すんです。なぜ、ここで偽終止が使われているかというと、1番だけAメロが2回繰り返しなんですよね。そこで、変化をつけるために1回目のメロ終わりを偽終止にしています。もっさんの縁の下の力持ち的な心遣いです。2回目は同じ繰り返しですが、ラストはB、「偽」じゃなくきちんとトニックに終止しています。

 

 

(Key=B)

 

| EM7(9) | B / D# | C#m7(11) D#7(♭11) | G#m F#m7 |

| IV | I / III | IIm III7 | VIm Vm |

 

| Fm7-5 B♭7 | D#m7  Bm / D | C#m7 | D#m7(11) / G# G # |

| IV#m7-5 VII7 | IIIm  Im / III♭ | IIm | IIIm / VI  VI

 

| F# / G#  G# |

| V / VI  VI |

 

 

 これまたいいBメロ!ちゃんとBメロしつつ、最大限変わったことをしています。出だしはサブドミナントメジャーナインスと、かなり多い音数のコードでどこか寂しさを感じさせる出だしです。そこから下降クリシェ、そしてIII7をはさみつつドミナントマイナーで終了。そして問題はここからです。

 

 さっきのラストから滑らかに半音下がったFm7-5から強進行でセカンダリードミナントであるB♭7へ。ディグリーネームで表記すればVII7ですが、このコード、セカンダリードミナントの中で断トツに使用頻度が低いです。なぜなら「II#、IV#」というノンダイアトニックトーンが2つも含まれていて、下手したら調性まで変えてしまうことになりかねないからです。先程の歌詞の部分でも書きましたが「不安定な空みたいに」という歌詞に呼応するように「不安定な」コード。VII7の着地先はIIImなのでD#m7に、そしてサビの「ほら」の部分にも出てきた浮遊感のあるIm / III♭へ半音下降。ジェットコースターみたいに跳ね回るコード進行に振り落とされないように必死ですが、IImにこれまた半音下降したあと、なんとここでD#m7 / G#→G#。全てダイアトニックトーンですが、これが変ニ長調のツーファイブであるE♭m7 / A♭→A♭(全く同じ音で、表記の仕方が違うだけです)に当たるので、転調先の変ニ長調へ華麗にアプローチ。ラストにダメ押しでF# / G#→G#。皆さんついてこられましたでしょうか……?スキマスイッチと山本さんに振り回されっぱなしです。安藤さんもこの歌いにくいメロディを加工もなしで難なく歌いこなしています。これだけ複雑なことをしていながら、こうして気にして聴かない限りはサラッと耳を流れてゆくんですよね。そこがすごいところですし、カッコいいです。

 

 サビは冒頭と同じ、2番も基本的に同じなので、このまま間奏へ行きます。

 

 

(Key=E)

 

| E | F# | AM7(9) G#7 | C#m7 E7 |

| I | II | IV III | VIm I |

 

| AM7 | A#dim7 | G#m7-5 | C#7 |

| VI | VI#dim | IIIm7-5 | VI |

 

| DM7(9) | DM7(9) |

| VII♭ | VII♭

 

(Key=B)

 

| C#sus4 C#M7 | F#sus4 F# |

| IIsus4 II | Vsus4 V |

 

 

 間奏はもうムチャクチャなので(理論的には一分の隙もなく完璧なのですが……)説明すらしづらいのですが、少しでも理解していただければ。コードもわりと色々な取り方ができると思います。キーは普通にロ長調として取ろうかどうしようか迷ったのですが、ホ長調として取るのが自然かなと思います。一体何回目の転調なのか……。トニックからそのままIIへ。ちょっとワルイドな印象を受けます。そのままサブドミナントからセカンダリードミナントであるIII7へ。何度も出てきたのでもう説明は要りませんよね。そして、ここの部分。ストリングスのメロディは全く一緒(2小節単位で一区切り、それが2回繰り返されています)なのですが、当てられるコードが変わっていて面白いです。「」はEからすると構成音なのですが、AM7からすると9thでテンションになっていて。A#dim7のディミニッシュを挟みつつ、セカンダリードミナントC#7に強進行で進むためにG#m7-5を配置。ラストはモーダルインターチェンジDM7で浮遊感のあるコードを響かせつつ、半音下げてsus4を織り混ぜたロ長調のツーファイブで綺麗に転調。なんとも鮮やか。安藤さんでいうと「絵になるお話」の間奏もこんな感じです。キーボーディストである山本さんだからこそできるアレンジ。ギターじゃなかなか作れない進行です。

 

 そしてロ長調のBメロを挟んで、ラストのサビへ。ラストは変二長調から1つ上の二長調にサビのメロディを丸ごと移調。使用されているキーは3つ全体で8回も転調しています。もう何が何だか……という感じです。そりゃあ、写譜屋さんも愚痴ります。 

 

 

 

 

(Key=D)

 

| D  A / C# | CM7 B7 |

| I  V / VII | VII♭ VI |

 

 

 ラストはキーが変わっただけで、コードは今までのサビと基本的に一緒なので「君が手を ほどいてちょっと前を歩いて」の後のタメの部分を。といっても、ベースが半音に下がってゆくだけ、ですが。ストリングスのアレンジと相まって、実に効果的なタメです。

 

(Key=D)

 

| B♭M7 | B♭M7 | C | C | ×4

| VI♭M7 | VI♭M7 | VII♭ | VII♭ |

 

| D |

| I | 

 

 

 アウトロもサビのコード進行の繰り返しですので、MVではカットされているラストのコード進行を。坂本真綾さんの「SAVED.」や安藤裕子さんの「世界をかえるつもりはない」のラストでも同じような進行が用いられていますが、VI♭→VII♭→Iのモーダルインターチェンジを挟んでトニックへ解決する、非常に浮遊感のある、ロック色の強いコード進行。aikoが親の仇みたいに使うコードです。何だかこの記事、安藤さんとスキマスイッチに次いでaikoの名前が登場しましたが、aikoのメインアレンジャーである島田昌典さんもキーボーディストなので、おつけになるコード進行が山本さんとわりと近いんですよね。それでよく名前を出しました、っていう言い訳です(笑)。ラストまで解説のしがいのある、複雑だけれど押しつけがましさはない、でも骨太なコード進行でした。ややこしい内容でしたが、ここまでお読みいただいた方がいらっしゃれば、書き手冥利につきます。ありがとうございます。

 

 

 15000字を越える長い記事となりましたが、スキマスイッチ安藤裕子さん、そしてアレンジャーの山本隆二さんの最高のコラボレーションを楽しむ一助になれば幸いです。カップリングの「うしろ指さされ組」のカバーと、Instrumentalを楽しみに7月29日まで待ちます、それでは!

 

 

360°(ルビ:ぜんほうい)サラウンド

360°(ルビ:ぜんほうい)サラウンド

 

 

 

 

引き金 / 匂い

 匂いは五感が認識するものの中で最も他者に伝えにくいものだと思う。

 

 

 例えば視覚が認知する風景は写真に閉じ込めることができる。聴覚が捉える音は録音できるし、鼻歌なり楽器なり、その”音”を再生する方法はいくらでもある。その音がメロディであるなら、今の時代、SHAZAMで曲名を認識し、YouTubeで検索し、聴かせればいい。触覚はそもそも物体の”触り心地”の数自体が少ないし、「固い」「柔らかい」「ざらざら」「ぬめぬめ」など、言語化しやすい。味覚――味覚も厳密には伝えづらいけれど、なんとなくいけそうじゃない?そんなに人に伝えにくいほど変な食べ物は日常生活で口にしないし、「食レポ」もよっぽど語彙力のないタレントでない限り、大体伝わるし。というかそもそもそんなに本気で”匂いの伝えづらさ”を論じたかったわけではないので、あんまり深くツッコまないで!ほしい。そしてもちろん、もし好きな洗剤や香水の匂いを伝えたいのだとしたら、その匂い自体をその場に持ち込み、漂わせればよいのだから容易い。けれど、ここでいう”匂い”はそういう画一化された匂いではないのだ。

 

 

 匂い。夕立の後、大気に湿気の重みが残り、新緑の気が際立ち、地面が甘いような饐えたような香りを放つ、匂い。古い木造の建物の、木が時間を沁み込んだような埃っぽいけれど、どこか落ち着く素朴な匂い。クリスマスの朝、プレゼントの包装紙を破るときの、否が応でも期待を煽られる紙とインクの織り成す人工的な新品の匂い。「少しずつ空気に薄荷が交じり始める」という、晩夏の気配をそのまま言葉に封じ込めた三島由紀夫の美文があるけれど、これは匂いというより全体的な感覚かな。いつか、そういう、個々人の多種多様な嗅覚が好む、世の中に溢れる名状しがたい美しい匂いを捕え、いつでも味わえる、そしてそのままの感度で誰かに伝えられる日は来るのだろうか。

 

 

 なぜ急に匂いが気になったかというと、今、自宅の2階のトイレの芳香剤の匂いを嗅ぐたびに、何かの記憶を思い出しそうになるのだが、それが何なのかどうしても思い出せないのだ。何となく、小学5年生頃、夏の記憶らしい。「この匂い、どこかで嗅いだことがある!」というやつ。小学5年生の夏、ひたすらトイレに籠っており、そのときと同じ芳香剤、みたいなオチだとしても、なぜその匂いが鮮烈に記憶のトリガーになっているのかが謎である。「シャボン」だの「ラベンダー」だの、何かしらの匂いの名称がその芳香剤にもついているのだろうが、具体的に説明しづらい匂い。トイレの芳香剤の交換スパンがどの程度なのかは知らないが、しばらくの間、そのトイレに足を踏み入れるたびに過去のある位相に嗅覚だけ取り残されたような不思議な感覚に陥りそうだ。

 

 

 ……なんて感じで記事を終えようと思っていたのだが、小部屋の化学的な匂いの組成が変化してしまったのか、昨日からトイレに入っても、その”思い出せそうで思い出せない記憶を呼び起こす匂い”が少し変化してしまって、記憶の引き金の役割を果たさなくなった。何の変哲もない「柑橘系の」匂いになってしまった。もちろん同じ芳香剤である。もし、その”記憶のトリガーの芳香剤”の匂いを捕えられたなら、その匂いを嗅ぐたびに思い出せそうで思い出せない記憶にもやもやさせられたのだろうか。何だか何が書きたいのかよく分からなくなってきたのでここらで文を閉じるが、僕は匂いフェチです。

常に新しくあり続けること

 インタビューを読むのが好きだ。

 

 

 好きな人のものならもちろん、そこまで知らない人のものでも。もちろん、インタビューなら何でもいいって訳ではない。その人の生き方を尊敬できるか。その人の思想に共感できるか。まあ、逆に言えばそのふたつの基準さえ満たせば、どんなインタビューでもいいのかも知れない。

 

 大手予備校の春期講習で四日間、大阪まで出向いた。ティム・バートン展に行ったり、オープンしたばかりのルクア 1100を歩いてみたり。付録が付いているものでもなんでも、一冊は自由に立ち読みができるようになっていて、それ以外は全てビニール包装されているという都会の本屋の心遣いに感動しながら(まあその規模、その売上の余裕からそういうことができるんだろうけれど)、色々な雑誌を立ち読みしてみたり。その中で、一際目を引く雑誌があった。

 

 

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 カルチャー雑誌「SWITCH」の「COMME des GARÇONS」特集号。日本の女性ファッションデザイナー川久保玲が1969年に創設した、フランス語で「少年のように」という意味を持つブランド。81年からパリ・コレクションに参加し、同時にデビューした山本耀司と共に、オートクチュールを頂点とする西欧モードを揺るがす「黒の衝撃」と騒がれた。97年の春夏では「ボディミーツドレス、ドレスミーツボディ」で美の基準に真っ向から牙を剥き、14年春夏以降の「モンスター」などのコレクションではコレクションの新しいあり方を提示している。また、ルイ・ヴィトンからH&Mまで、幅広いコラボレーションでも話題を集めている。

 

 友人に川久保玲系列の服を好んで着ている人がいたので何となくその存在は知っていたし、ちょうど予備校へ行く道にショップがあるので意識の片隅に強く位置していたのかも知れない。教材がたくさん入ったリュックに辟易としながら、迷わず雑誌に手を伸ばした。

 

 

 §

 

 

 立ち読みで済ませてしまったので(今ものすごく後悔しているので近日中にきちんと購入しようと思う)原文をそのまま引用することはできないが、川久保氏はひたすらインタビューで「常に新しくあること」を説いていた。帰宅後、母にそのインタビューで受けた衝撃を話したのだが、50代の母親も、自分が若かった頃から揺るぎない人気とその影響力、そして72歳という年齢にも関わらず全く感性が衰えていない斬新なデザインに感じるものがあると言っていて、長年にわたり第一線にいることを改めて認識した。

 

 川久保氏は毎朝7時半に出社し、パリコレ前は連日深夜帰宅だそう。スタッフも皆口を揃えて彼女を「勤勉家」と評する。どこかで見たようなもの、以前デザインしたようなものは徹底的に排除する。また、ニューヨークのチェルシー店には若いデザイナーを紹介するショールームスペースをつくっている。その辺りに「常に新しくあり続ける」秘訣があるのではないだろうか。そのストイックさには畏怖の念すら抱かせられる。

 

 よくネットではパリコレなどのコレクションから奇抜なデザインだけを抜粋して、その実用性のなさをあげつらい騒ぎ立てているが、近年のギャルソンにおいてコレクションで披露されるルックは”ブランドのイメージを象徴したもの”らしい。

 

 

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 コレクションは象徴として考えたいというのが最近の気持ちです。クリエーションの象徴は精神的な部分も含めて強いものがあり、一方で、クリエーションをビジネスにする別の土台、別の部屋が必要です。やや線を引いた仕事をしていかなければならないかなと考えています。象徴としてのコレクションという風に割り切ったのです。

 

 もちろん象徴で終わってはダメですから、象徴の気持ちを実際のビジネスに落としていかなければならない。それは数字が絡むので線引きが非常に難しい。クリエーションをビジネスにする、ビジネスをクリエーションするというのは、様々な状況に対応できるように、個性があり独立したブランドをいくつも作ることもその一つです。それをどう展開していくかとなると、やっぱり店作りが重要になる。

 

 本当はビジネスもクリエーションです。究極のクリエーションをビジネスにしていくには、数字を追うだけでは意味がない。いかにクリエーションのビジネスを作りあげるか。これも私のすごく大きな仕事です。

 

 

 コレクションでのルックを見ると、毎度その奇抜さに驚かせられるのだが、店頭に並んだものを見ると、決して日常生活から切り離されたものではないように見える。インタビューでしきりに「コム デ ギャルソンはビジネスです」と言い切る川久保氏。

 

 制作した服を自身で直接店舗に売りに行き、その収益で次の制作に取り掛かっていたという元々からして、コム デ ギャルソンには「ビジネス」という言葉が常に根底を流れている。川久保氏は、「コム デ ギャルソン」のトップデザイナーという位置に留まらず、年間150億円を売り上げる「コム デ ギャルソン社」の経営者でもある。なんと、ショップのデザインから、顧客に配布しているDMのデザインまで全て自分で手掛けているそうだ。”デザイナーがつくりたいものをつくれる土台をつくるために、そしてその環境を守るために経営してゆく”という考えはこの時代、どの分野においても参考にすべき考え方なのではないだろうか。”純然たるクリエーションと、クリエーションに付随したビジネスに線引きをする”。創造性が必要とされる職業において、最も明快でシンプルな答えな気がする。

 

 

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WWD:自分自身を純粋なクリエイターだと思うか、それともビジネスウーマンと思うか?

川久保:私はビジネスウーマンよ。

 

 

§

 

 

 今号の「SWITCH」には「コム デ ギャルソン」が1988年から91年の4年間に関係者向けに少部数制作していたヴィジュアルマガジン「Six」が全8冊、全ページ掲載されていた。その中で、スイッチ編集部が世界的写真家セバスチャン・サルガド(Sebastiao Salgado)の最新プロジェクト「Genesis」を特集し、川久保玲が監修した2015年スイッチ版「Six」も制作されていたのだが、そのセバスチャン・サルガドの写真が凄まじかった。

 

 ブラジル出身の写真家で、ドキュメンタリー写真・報道写真の分野において活動しているサルガド氏。71歳と、川久保氏と同じ年代に生まれた方である。世界の”リアル”をCGと見まがうようなモノクロ写真に閉じ込め、また新しい命を与えている。

 

 

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§

 

 ”常に新しくあること”は”孤独と戦うこと”でもあると思う。カルチャーが単調な生活を回す潤滑油でしかなく、個々の価値観に何の影響も落とさず、世に蔓延る多数派に付和雷同し、メディアがつくった流行に踊らされるこの時代。私たちがコム デ ギャルソンから学ぶべきことはたくさんあると思う。

 

 

 ――出口のない不況が続き、世界中で格差批判も広がっています。高級ブランドを扱う業界には逆風ではないですか。

 

 

 「どの分野でも、商品の値段や製作費用をいとわず、新しいものを作り出そうとしている人はたくさんいます。そうした姿勢は、どんな状況であっても人が前に進むために必要なものだからです。私にとってはファッションこそが、そうした場なのです」

 

 「一般の人には高くて買えない服でも、新しい動きなり気持ちがみんなに伝わっていくことが大切です。作り手が世界を相手に一生懸命に頑張って発表し、それを誰かが着たり見たりすることで何かを感じて、その輪が広がっていけばいい。新しいというだけでウキウキして、そこから出発できる。ファッションとはそういうものです」

 

 

 ――川久保さんの真骨頂は前衛的なデザインです。でも、世の中の風潮は安定感や着やすさを求める傾向にありますね。

 

 「すぐ着られる簡単な服で満足している人が増えています。他の人と同じ服を着て、そのことに何の疑問も抱かない。服装のことだけではありません。最近の人は強いもの、格好いいもの、新しいものはなくても、今をなんとなく過ごせればいい、と。情熱や興奮、怒り、現状を打ち破ろうという意欲が弱まってきている。そんな風潮に危惧を感じています」

 

 「作り手の側も1番を目指さないとダメ。『2番じゃダメですか』と言い放った政治家がいました。けれども、結果は1番じゃなくても、少なくともその気持ちで臨まなければ。1番を目指すから世界のトップクラスにいることができる。日本は資源がないのだから、先端技術や文化パワーで勝負するしかないのです」

 

 

 最後は、最新作2015年春夏「薔薇と血」からのルックでこの記事を終えたいと思う。

 

 

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さよならだけが人生だ

 いい短編集や、いいミニアルバムは、ただの長編やただのフルアルバムより何倍も好きだ。

 

 

 さすがに音楽では起こり得ないし、長編だとそういうことはないが、文章を絵として、絵を文章として読み替えて記憶するという妙な特技というか癖のせいで、たまに「あのマンガ家のあの短編が読みたい」と思い、記憶をその人の作品の中に同定しようとするも、どうしても見つけられず、もう諦めようとしたところで全く関係ない作家の短編小説だったと思い出す、というようなこと(その逆もまた然り)が時々ある。これに限らず、記憶と事象が些細な齟齬をきたすことはよくある。

 

 

§

 

 

 恩田陸のことを知ったのはきっとその時が初めてではないだろうが、中学1年生のとき友人が「最後の謎明かしが気持ちいい」という理由で好きだと言っていたのをよく覚えている。そのために、ミステリー畑の人だと誤解していたので、かなりジャンルレスな執筆をされていることはあとで知った。初めて読んだ彼女の作品は常野物語というシリーズの一作目「光の帝国」。「常野」呼ばれる不思議な能力を持つ人々を書いた短編集で、読んだのはもう5年前になるためにあらすじは曖昧だが、小料理屋と割れた茶碗だとか、高層ビルに生えた蔓だとか、そういう物語の映像をよく覚えている。”演劇”という題材の「チョコレート・コスモス」という作品での緊迫感のあるオーディションシーンや、”影”を演じる登場人物の異なるふたつの演技を書いた文章でも感じたが――多分そこは重きを置かれている部分ではないのだろうけれど――個人的には視覚を感化させる文章を書かれる作家だと思う。

 

 飛び飛びで休みがある、この微妙な長さの春休み。相変わらず昼夜逆転の堕落した生活を送っているのだが、一日一冊のペースで本を読んでいる(ので、なんとなく生産的な日々を送れていると錯覚している)。読書は好きだが、別に「常に何かを読んでいないと落ち着かない」みたいな活字中毒というわけでもないし、「他の全てを差し置いて本が好きか」と問われれば、全くそんなことはない。常に考え事をしているタイプの人間で、しかもその考えている事が文章になっていつも頭を飛び交っているので、自分を小休止させるために本を読む、みたいなところが真実なんじゃないかなと思う。意識が浮き立ち、妙にクリアになるので、カナヅチなくせに水辺が好きなのだが、浴槽というのは最も手軽な水辺だと思っている。しかし、風呂というものは本当に湯船と水しかない場所なので、どうしても深い深い内省に陥ったり、異様なテンションで気恥ずかしいことを思い立とうとしたりして何だか疲弊するので、大体いつも本やマンガや雑誌など何か読むものを持ち込む。

 

 という訳で昨夜もダラダラと二時間くらい風呂で姉の部屋から拝借した恩田陸の「ブラザー・サン シスター・ムーン」を読んでいた。今、ざっとAmazonに目を通すと決して評価は高くないし、何年後かにまた読み返すというような作品でもない。しかし、どこか今の自分にフィットして、心の奥深くをゆっくり動かされた気がする。

 

 「繋がっているけど繋がっていない人たちの話」という登場人物の言葉がこの作品をうまく表している。三章に分かれていて、それぞれの章で「楡崎綾音」「戸崎衛」「箱崎一(はじめ)」という三人を主人公に据え、そのキャラクターによって一人称形式、三人称形式、一人称・三人称が混在した形式がとられている。その三人はクラスは違うものの同じ高校に通っていて、とある授業で同じ班になったということをきっかけに一緒に映画に行ったり、お茶を飲んだりして時々遊んでいた。そのまま同じ大学に進学したものの(その高校は県内ではかなりの進学校で、その大学も有名私立大学のため、ご都合主義な展開ではない)学部は別で、それぞれに時々親交はあるものの、三人で会うこともなく、社会人になる。社会人になったその三人がそれぞれ学生時代をそれぞれに回想する、そして印象に残ったできごとはそれぞれ違うが、根底は同じものである、みたいな話。別に中身のある話ではないが、それぞれのエピソードを軸に読み手も自身の過去を(私はまだ高校生なので未来になるのだが)想起できる余白のある物語だった。

 

 

§

 

 

 私はよく「大学生になったら」という言葉を使う。あるいは、「都会に出たら」。娯楽施設といえばしょぼくれたTSUTAYAマクドナルドしかない四方を山に囲まれた田舎に育ったせいで、そういう思考になったのかも知れない。知れないけれど、その手の言葉を使うたびに、何かから逃げているような後ろめたさも感じる。この春、大手の予備校の春期講習に通うが、もしその近くに住んでいれば春期講習の期間中ならいつでも自習室が使えるのにと羨んだり、高校生は無料で観られる美術館の展覧会や、クラシックのコンサートの情報を知って往復で二千円近くかかる交通費を恨んだり、この田舎には憤懣やるかたないのだが。

 

 

狭かった。学生時代は狭かった。
広いところに出たはずなのに、なんだかとても窮屈だった。
馬鹿だった。学生時代のあたしは本当に馬鹿だった。
おカネもなかったし、ついでに言うと色気もなかった。
二度とあんな時代に戻りたくはない。

 

 

誰でもない時代。引き延ばされた猶予期間。
インターバル。幕間。それがあたしの四年間だった気がする。

 

 

恩田陸「ブラザー・サン シスター・ムーン」より引用)

 

 

 しかし、別に大阪には電車一本で行ける程度の田舎だ。現に才能のある若者は、インターネットの普及と共にどんな都会でもどんな僻地でも均一化された情報を利用し、その才能を活かして世に出ている。結局その言葉は、考えを実行に移さない、理想と現実の差に苦しむ自分の逃げでしかないということはよく分かっている。

 

 

§

 

 

 こんな日々が一生続くわけがないと知っていたけれど、こんな日々を疑うことなく、こんな日々にどっぷりと身を委ねていた。それでも、衛という人間は、何かにとことん入れ込むというこどができず、どこか醒めた目で自分を見ているようなところがある。

 

 

 俺は、就職するだろう。
 衛は醒めた気持ちでそう思った。
 普通に就職して、ベースとは疎遠になるだろう。そしてその時、ようやくジャズを楽しんで聴けるようになるに違いない。

 

 

 衛の予想通り、卒業して鉄鋼メーカーに勤めるようになると、その後やってきたバンドブームと共に、彼は日本のロックバンドばかり聴くようになっていく。

 

 

恩田陸「ブラザー・サン シスター・ムーン」より引用)

 

 

 二章での戸崎によるこのモノローグに、町田洋というマンガ家の短編集「夜とコンクリート」の最後に収められている、書下ろしの「発泡酒」という話を思い出した。夏の公園で友人が何気なく発した「音楽を作ることは俺のすべてだ」という言葉に感動した19歳の主人公。その数年後、社会人になった二人は友人らと、通っていた大学の最寄り駅近くの居酒屋で飲みに集まる。先に場を後にする主人公は、「久しぶりに顔を出すから妙に入りにくい」という理由でまだ店に入らずに外で煙草を吸っているその友人を見つける。駅の寂れ具合や、大学時代公園で飲むことが好きだったという何気ない会話の中で、主人公は「今も休日とか、音楽続けてんの?」と友人に訊くが、返って来た言葉は「そんなこともやってな」の一言。ふと、主人公はその言葉に悲しんでいることに気がつく。「それでも友人のあの言葉はあの時代の友人の真実だった。俺のあの気持ちはあの時代の俺の真実だった」というモノローグで締められるこの話。マンガなのに行間の使い方が巧みで、大好きな短編だ。

 

 

 小説家になりたい、なんて、口が裂けても言いたくないし、そう心の底では思っていることを認めたくなかった。

 

 

 小説家になりたい、という願望というのはなんとも複雑怪奇なものだ。
 もっとも、そうは思わない人もいて、大学のクラスにも「作家になりたいと思ってます。いろいろ書いて、応募してまーす」とはきはき言い放つ人がいて、東京都は恐ろしいところだ、と思ったものである。

 

 

恩田陸「ブラザー・サン シスター・ムーン」より引用)

 

 

 幼い頃から夢を持つ、ということをどこか馬鹿にしていた。幼少期から捻くれていたので、「モデル」や「野球選手」になりたいと笑顔で言う同級生を横目で見つつ、どうせ自分はなんでもない会社のしがないサラリーマンとして一生を終えるんだろうなあ、なんて夢も希望もないことを考えていた。また、不言実行が好きなので、将来の夢はおろか、進路に関してもあまり人に喋りたくない性質である。だから、上記のどこか醒めた戸崎や、「小説家になりたい」という夢を気恥ずかしく思う楡崎の気持ちはよく分かる。

 

 この流れでふと思い出したことがある。コアなファンにもあまり知られていないことだし、その発言が載ったページを見つけることはできなかったが、あまり自身の楽曲の”意味”を話さない安藤裕子が「聖者の行進」という楽曲に対して、いつかのエイベックスのインタビューでこう語っていた。「夜中に中学生を題材にしたNHKの番組を観ていて。今の時代は情報が氾濫していて、子どもですら自由に夢を持てない世の中になっている。でも、そういう幼い頃の夢は、叶わなかったとしても、大人になったときに支えになってくれるもの。だから、学生時代は精いっぱい夢を見てほしい」というような内容だった。歌詞カードには記載されていない「身を焦がされても失くさないで 夢見てくれたらいいの」というラストの言葉の意味がこのときに分かって、腑に落ちたし、感動した。話を戻すが、その歪んだ考えのために将来の夢を訊かれたら、小学生のときは何やらその場しのぎに、中高での懇談の際や友人から尋ねられたときは「文学部志望で、就職は出版社志望」ととりあえず答えている。そう答えるたびに「物書きになりたいのか」と言われるのだが、編集の職を想像して答えているので、そう思われていることに恥ずかしさを感じると共に、どこか嬉しさも感じているのは事実だ。

 

 宮崎駿監督の「風立ちぬ」を観るたびに「創造的人生の持ち時間は10年だ。君の10年を力を尽くして生きなさい」という言葉に感銘を受けている。先日のライブで安藤裕子もそう話していて、なんだか面白かった。その10年が自分にあるのかどうかは分からないが、もしあるとすれば、どういう職種でもいいから、自分の持てる限りの想像力を注ぎ込みたいと思う。それが、今の自分の夢である。

 

 この間「SWITCHインタビュー 達人達」というNHKの番組で、ロッテの「ACUO」というガムのパッケージデザインで有名なデザイナーの佐藤オオキと、大ヒットマンガ「暗殺教室」でお馴染みのマンガ家、松井優征が対談をしていたのだが、その中での佐藤オオキの「アイデアには硬度がある。アイデアは柔らかければ柔らかいほど、解釈の余地があるので、ギリギリまで柔らかく保持しておく。その柔らかいアイデアをどのタイミングでどう固めてゆくかが最も大事だ」という話に深く共感したので、クリエイティブな職に就きたいという流れに付して、ここに書き留めておく。

 

 

§

 

 

 本当に、あたしは馬鹿だった。
 非常に幼かった。
 大学生というのはもっと大人だと思っていたけれど、高校生をもっと大人だと思っていたのと同じくらいに大人じゃなかった。本や映画で観た十七歳が、実際自分でなってみたらたいへんショボかったのと同じように、本や映画で観た二十歳は、さらに輪をかけてたいしたことがなかった。


 
恩田陸「ブラザー・サン シスター・ムーン」より引用)

 

 

 よく「年のわりに大人びている」といった類の言葉をかけてもらう。「君は体の中に壮年のおじさんを飼っている」や、「進一がコナンになっているみたい」というような言葉をかけてもらうたびに、顔には出さないものの内心とても喜んでいる。社交辞令もあるだろうけれど、思えば小さい頃から「しっかりしている」と周りの大人に言われて大きくなってきた。そして、「同年代の子よりも大人びた考えをしている」ということが、風で吹けば飛んでゆくようなものだけれど、私のアイデンティティだった。だからこそ、大人になることが怖かった。「二十過ぎればただの人」なんて言葉を引き合いに出すほど自惚れてはいないが、年を取って、そのちっぽけなアイデンティティが失われるのが怖かった。でも、近頃以前ほどの焦燥感はなくなった気がする。母親の「年を取ると考え方も大人に、落ち着いたものになると思っていたけれど、同じひとりの人間の内にそこまで劇的な変化は起こらないことが分かった」という言葉が妙に心に引っ掛かった、ということをいつかの記事で書いたが、逆に考えれば、実行力のある人が大学生にならずとも都会に出ずともその才能を活かして世に出ているのと同じく、その年代年代に合わせて周りから一歩先んじて生きてゆけばいいだけのことだと思えるようになったからである。

 

 

§

 

 

「――僕ね、『陽のあたる場所』が好きだって言ったでしょう?」

 

(中略)

 

「それって、あの映画に、個人的にベスト3に入る台詞があるせいなんだよね」
「へえ。なんて台詞ですか」

 

(中略)

 

「最後のほうで、エリザベス・テイラーが、殺人罪で告発されたモンゴメリー・クリフトに言うんだよ。僕、そんなにエリザベス・テイラーが綺麗だと思ったことないんだけど、あの場面のエリザベス・テイラーだけはすごく綺麗だなって思うんだ」

「すみません、あの映画、見たはずなんですけど、忘れちゃいました。なんて言うんでしたっけ」

 ライターは頭を掻く。

「こう言うんだ」
 箱崎監督は、ライターの顔を正面から見るとニッコリ笑った。
「『私たちは、別れるために出会ったのね』」

 

 

 私たちは、別れるために出会ったのね。

 

 

恩田陸「ブラザー・サン シスター・ムーン」より引用)

 

 

 安藤裕子のどこか一番好きかというと、その詞なのだが、煎じ詰めれば思想が似ているからである。いつぞやのインタビューで(多分ベストアルバムの頃)「唄い前夜」という楽曲に対して「朝起きてすぐに歯を磨いて、朝食はトーストが二枚で、八時二十分に家を出て、200メートル先の曲がり角でいつもその時間に家の前を掃いているおばあさんに挨拶をして……みたいな毎日のルーティンが少しずつ少しずつずれ始めるような感覚の中で制作した」と語っていた。また、「自分はずっと同じ人と同じように生きてゆきたいのに、全てが移り変わってゆくことが怖い」とも。

 

 

ずっと同じままでいられる
土を強く蹴ったなら 空に昇れる夢を見ていた

きっといつまでもこうして生きてゆける
信じて笑っていた
あの日 君の瞳は気づいていた?

 

そよぐ風を待ち 薄れ揺らぐもの
あの面影を知る最後の場面の中で

 

ずっと同じ気持ちのまま
どこまでも続いていく道を歩いて
疲れも知らず笑う不器用な私が
あの日 君の瞳に映っていた
今 消えゆく陽炎 溶けてゆく
あの日 君の瞳は気づいていた?

 

 

安藤裕子「唄い前夜」より引用)

 

 

幸せは必ずいつもあの子の横にあるように思えていた
あなたの指が触れる今 この時までずっと
ずっと、ずっと、ずっと

 

(中略)

 

「変わらない気持ちでいられたらいいのになあ」
ふっと あなたが口に
くすぐったいなあ 同じ気持ちだ
伝えたいな

 

変わらなければいい 心も体さえ
ねえ、ずっと一緒にいられるんだと
約束だけでもここでちょうだい

 

ねえ、ずっと一緒にいられるなら
言って
口に出して

 

 

安藤裕子「悲しみにこんにちは」より引用)

 

 

 前述の「唄い前夜」や、ずっと「あの子」のことが好きなのだと思っていた「あなた」が自分の横に居て、手をつないでいるという喜びの最中なのに、その幸せが訪れることが「悲しみにこんにちは」でもある、という何とも切ない楽曲「悲しみにこんにちは」という曲を例にあげれば、確かに安藤裕子は「諸行無常」思想で、そして「諸行無常」を恐れている。タイムリーなことに、彼女は昨夜Twitterでこんなつぶやきをしていた。

 

 

 

 

 また「私たちは、別れるために出会ったのね」という言葉を受けて、唐代の詩人于武陵の詩「勧酒」に対する井伏鱒二の名訳をふと思い出した。

 

 

コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ

 

(この杯を受けてくれ
どうぞなみなみ注がしておくれ
花に嵐のたとえもあるさ
さよならだけが人生だ)

 

 

井伏鱒二「勧酒(酒を勧む)」より引用)

 

 

 「花に嵐のたとえもあるさ」をTwitterのプロフィールの文言にしているフォロワーの方がいらっしゃって、その素敵な言葉が気になって調べたときに知ったこの訳(「さよならだけが人生だ」はどこかで聞いたことがあったけれど)。「人生 別離足る」を「さよならだけが人生だ」と訳しているのである。そしてこの訳を受けて詩人の寺山修二がこんな詩を書いている。

 

 

さよならだけが人生ならば また来る春は何だろう
はるかなはるかな地の果てに咲いている 野の百合は何だろう
さよならだけが人生ならば めぐり会う日は何だろう
やさしいやさしい夕焼と ふたりの愛は何だろう
さよならだけが人生ならば 建てた我が家なんだろう
さみしいさみしい平原に ともす灯りは何だろう
さよならだけが人生ならば 人生なんか いりません。

 

 

寺山修司「さよならだけが人生ならば」より引用)

 

 

 今回この詩を引用するためにネットサーフィンをしていた過程で発見したのだが、竹内整一の「ぼくのさよなら史」のいう本の序文に、作詞家の故・阿久悠のこんな言葉が引用されているらしい。

 

 

「さよならは有能で雄弁な教師であった」

 

「人間はたぶん、さよなら史がどれくらいぶ厚いかによって、いい人生かどうかが決まる」

 

 

 安藤裕子は、日本を未曾有の地震が襲った後、母親代わりだった祖母を失くし、同時に子どもを授かった彼女の死生観が色濃く滲み出た「グッド・バイ」という曲を、こう閉じている。

 

 

さあ、目の前で倒れた木々
膝高く 越えて 舞え
泥に埋もれ消えた芽吹き
夏の日差しに生まれ変わろう
恵みの雨や 一雫
あなたの涙 一雫

 

また会えるように
舞えや 歌え

 

また会えるように

 

 

安藤裕子「グッド・バイ」より引用)

 

 

 「さよなら」は決してネガティブなものではなく、また新しい出会いを運んでくれるもの、人生をより彩り深いものにしてくれるものだと思わせてくれる、美しい言葉たちである。

 

 

思い出を非常食に心の空腹をやりすごしていこう
記憶の微炭酸を飲み干してしまう頃に
ねえ、また会えるかい

 

バイバイ 言えたさみしさが僕らには
また次のハローに出会うパスポートなんだよ
素敵じゃないかい

 

 

(日食なつこ「数える」より引用)

 

 

§

 

 

 思いついたことを思いついたままに書き連ねたので、何だかとりとめのない内容になってしまったが、「雑記帳」というブログタイトルなのでこれもまたよしとする。

 

 「ブラザー・サン シスター・ムーン」で主人公のひとり、箱崎の「幼少期から映画を観ていたせいか、記憶がシネスコサイズの絵として頭に収まっている」という言葉が面白かった。「子供の頃の記憶、思春期の記憶、皆、映画の一場面のように、自分を映画館の座席から見ているように覚えているのだ」という。

 

 人生を物語とすると、その中には様々なシーンがあり、様々なエピソードがあり、様々なキャラクターを持つ人がいて、その場面場面に印象的な「絵」がある。「ブラザー・サン シスター・ムーン」の面白いところは、同じ記憶を共有しているはずなのに、三人ともその場面の中で最も強烈にインパクトが残っている部分が違うということと、それぞれの記憶の収め方が微妙に異なるということだ。また、三人ともが残りの二人に下す人物評が、その本人も無自覚なところまで絶妙に的を射ていてリアルだった。同じ人でも、それぞれの記憶の中で醸成されてゆく雰囲気が違う。イメージが違う。

 

 作品同様「繋がっているけど繋がっていない」文章になってしまい、完璧に締め方を見失ったので、最後はもうたった今思いついた青臭い言葉で締めることにする。

 


「あなたの物語にいる僕は、どういう人ですか?」